ご案内
 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年06月07日

ディボーションの実際

「主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください」(詩編119:65)

 「ちいろば先生」の名で親しまれた榎本保郎先生は「朝の15分があなたの人生を変える」と言われました。御言葉に聴く5分間。その御言葉を思い巡し、あるいは信仰書を読む5分間。そして神さまの導きを祈り求める5分間です。
この15分間の「御言葉と祈りの生活」により人生そのものが変わると言うのです。

 ではどのように変わるのでしょうか?
 第1に、御言葉に聴く中で神さまの私に対する願いが分かってきます。
 日々の生活は「こんなはずではなかった」と思う出来事の連続です。でもクリスチャンの特権は「こんなはずではなかった」と思う出来事の背後に神さまの確かな御手があることを確信できることなのです。
 創世記のヨセフがそうでした。パウロもそうでした。絨毯を裏から見てもまったく無秩序な模様しか分かりません。でも聖書を通して神さまの見方をいただくときに、その絨毯を表からはっきりと見ることができるようになる。
「こんなはずではなかった」と思えるような出来事の背後に、実は温かな恵み豊かな御手による鮮やかな導きを見るのです。クリスチャンとは、それを体験して生きることができる者です。
 このように神さまの愛と恵みを体験する中で、次に起こることは、神を賛美したい、神に感謝したい、神の恵みに応えて生きたい、という思いが不思議と与えられていくことです。そのようにして神さまの願っておられることを祈り求める私たちに変えられます。
その結果、祈りが聴かれる経験をし始めます。
 御言葉に聴く中で価値観が変わり、時間の使い方、お金の使い方、人との接し方?物事の判断の仕方が変わります。つまり「人生が変わる」ということはそういうことなのです。その変化が、毎日の15分の「御言葉と祈りの生活」から始まるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

神の御前で問われること

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:40)

 子どもが小さかった頃、我が家にたくさんの学習教材に関する手紙が送られてきました。4人の子どもたちそれぞれに送られてきますから、結構な量です。
その時、末の息子に送られてきた手紙を見ましたら、「果物と魚を種類に分けることが出来ますか」とか「しっかりとハサミを使うことが出来ますか」とか、そうした内容の教材が紹介されていました。
子育ても4人目になりますと、「余計なお世話」ということで、中身を空けずに廃品回収やごみ箱に入れてしまうケースも多いのですが、長女の時はどうだったか、と思い出すと、送られてきたものを熱心に見ていたのではないかと思いました。
「他の子どもに比べて遅れをとったらどうしよう」という不安。また知らず知らずのうちに、「他の子よりも、少しでも出来て欲しい」という親としての期待。そうしたものが入り混じっていたように思います。

ところで、私たちは自分に確かなものが無いために自分の外側に絶えず「物差し」を求めて生きることがあります。「学力」や「偏差値」という物差しであったり、「器用さ」という物差しであったり、あるいは会社に入れば「実績」や「業績」が物を言い始めます。
そうした中、イエスさまは「最後に神の御前で問われること」は偏差値でも経歴でも持ち物でもなく、愛が問われると教えてくださいました。
私たちを計る物差しがあるとすれば、それは「どれだけ愛したか」。しかも、「日常、出会う人々の隣人となっているか」を、神さまは、私たち1人ひとりに問う、というのです。
愛に貧しい私ですが、今日もキリストにつながり、愛の実を結ばせていただきましょう!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月05日

主のもとに来なさい

「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。」(1ペトロ2:3−4)

 ある人が聖書の出来事を「人間の混乱と神の摂理」と一言で言い表わしていました。
 確かに聖書には様々な人物が登場します。どの人間もどの家庭も、その人なりその家庭なりの重荷や課題があります。

 例えば、聖書には大きな苦しみを抱えたダビデの家庭の有様が描かれていきます。ダビデには、妻バト・シェバによって生まれたソロモンの他に何人かの子どもたちがおりました。
またアヒノアムが生んだアムノンはダビデの後継者、皇太子の地位にあった息子でした。ある時、このアムノンが、異母兄妹タマルを辱めたのです。
実はそうしたアムノンの情欲の姿は、バト・シェバに対するダビデの姿そのままでしたし、そのアムノンを殺したアブサロムの用意周到な策略と実行力はバト・シェバの夫ウリヤを殺したダビデそのものでした。
家庭におけるダビデは、息子たちから足元を見られ、よき模範どころではなく、息子たちの罪の姿はまさに、父親としてのダビデの姿そのものでありました。ここに子育ての怖さがあると思います。罪の連鎖があるのです。

 では「お手上げ」なのでしょうか。そうではありません。その日常に、私たちを最後まで守り導く主なる神がいてくださるのです。人間の混乱の中に、神さまの摂理があることを心に留めたいと思うのです。
 私たちの中に重荷があります。家庭の中に問題があります。
でもそうした私たちに対し「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエスさまが招いておられる。この招きに従い、イエスさまのもとに逃れ、このお方につながり続けていきたい。
そうした中で、新しい命の循環を私たち自身の中に、家庭の中に創造していただきたいと願うのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

主は心によって見る

「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」(サムエル上16:7)

 聖書は、私たち人の見方と神さまの見方にはズレがあることを教えています。もっと言えば、私たちの時代の価値観、基準に合わせて見る見方ではなくて、あくまでも「主は心によって見る」のです。
サムエル記上において16章からは、イスラエルの歴史の主役がサムエルやサウルから、ダビデに移っていきます。しかしダビデが最初どのような人物だったかと言えば、彼はエッサイの末っ子で、数にも入らないような存在だったことを聖書は強調しているのです。
預言者サムエルが、神さまに導かれて、サウルに代わる新しい王さまを求めてエッサイの家にやってきました。父親は長男からはじめ、1人ひとりの息子たちを、名前をもって紹介するのですが、サムエルは首を縦に振りませんでした。
さらにサムエルは「あなたの息子はこれだけですか。」と言って訊ねていますが、父親エッサイはダビデのことを最初から数に入れておらずに、「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と言ってダビデの名前すらサムエルに伝えていません。
「取るに足りない存在」として、この時ダビデは登場してくるのです。そうした少年ダビデが、イスラエルの王様として選ばれ、立たされていったのは、神さまの深い愛の御心によることでした。

 ところで、歴史の事を英語で「History」と言いますが、これは「His Story」の略だそうです。つまり、歴史とは「彼(神さま)の物語」であり、神さまがおられ、その方がこの世の主権者であることを覚えることこそ、実は、万事を益としてくださる神さまに信頼する信仰へと私たちを導くわけです。
今日も神さまは、あなたを神の歴史の主人公として用いようとしておられますよ!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
 
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

君は愛されるため生まれた

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4 新改訳)

 以前、みどり幼稚園の教育講演会にパクチョンピル牧師と、「君は愛されるため生まれた」で有名なゴスペルシンガーの奥さま、イムミジョンさんをお迎えしました。
ちなみに「君は愛されるため生まれた」を日本語に訳したのがパク先生で、それを日本に初めて紹介したのが奥さまでした。
 ご夫妻は日本を愛し宣教師として日本で活動をしておられます。また韓国と日本のクリスチャン音楽家と共に「愛と希望のチャリティー音楽会」の働きを立ち上げ、今も地道に被災地支援活動をおこなっておられます。

 講演会で、小柄な体から本当に力強く魂をこめて賛美される奥様に圧倒された後、パク牧師のメッセージがあったのです。
 講壇に立った先生は、お財布から新品の100ドル札を取り出し、私たちに向かって「これ、欲しい人いますか?」と問いかけられました。
その後、そのしわのない綺麗な100ドル札をクチャクチャにした上で、もう一度、「これ、欲しい人いますか?」と問われたのです。
そして今度は、それを床に投げ捨て靴でもって何度か踏みつけた上で拾い上げ、「これ、欲しい人いますか?」と再度、訊かれたのです。

 それからパク先生は、「いくらしわくちゃになっても、汚れても、この札の価値は同じですね。皆さんも、色々な失敗や、欠けや、また傷がつくこともあったかもしれませんが、皆さんの価値に変わりはないのですよ。
神さまは、あなたをご覧になって、『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と語り掛けておられるのです。」と語られました。

 そのお話を聴き、私は深く感動しました。
 汚れたり、傷ついたり、しわくちゃの存在かもしれません。しかし、たとえそうであっても、神さまは、そのあなたを愛し、あなたの中に尊い価値を見出しておられるのですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする