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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年06月21日

信仰の先輩パウロに学ぶ

「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」
(フィリピ4:9)

 ご存じのようにフィリピの信徒への手紙を書いているパウロは、ローマの獄中にいました。自分のお金で一軒の家を借りて住み、彼の右の手には鎖がかけられ?ローマの兵士の左手につながれていたと思います。
ローマの兵士は一日二交代で彼をガードしていたと思われます。そして、そのローマの兵士たちの中から、パウロとの24時間の生活を通してイエス・キリストを信じる者へと変えられた人たちが続々と起こっていきました。
そして、皇帝の親衛隊の中にもイエス・キリストを信じる者たちが広がり、皇帝の役人たちの中にも福音が広がっていきました。このようにして、当初、考えもしなかったような仕方で、ローマに福音が伝えられ、広がっていったのです。

 この時のパウロは、本当に限られたスペース、限られた自由の中にいたのですが、彼自身の生き方の姿勢は非常に前向きでした。主にあって志を持って生きていたことが分かります。そうした中で語られたのが今日の聖句です。

「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」

 まさにパウロは積極的に神さまの目をもって自分自身を見、周囲を見、そして自分が置かれている状況を見、そしてローマ社会全体を眺めていたのです。
その結果、キリストの中にある喜びで彼の心が満たされ、誰よりも自由に、より積極的に、主に仕えて生きる思いが与えられていました。

 今日、もしできたら時間を見つけ「喜びの手紙」であるフィリピ書を一気に読み切ってみてください。
信仰者パウロの姿勢から、何を学び、受け、聞き、見ることが出るでしょうか?その中のどれか1つを、あなたの生活に取り入れてみてくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 10:43| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

キリストと同じ思いを抱く

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」(ローマ15:5)

 ある日、イスラエルに飢饉が起こりました。その時、若い人が野に草を摘みにいきました。そして、ウリをたくさんとって帰って来た。
ところが、そのウリが毒ウリで、それを知らずに鍋の中に入れたものですから、その毒が煮物全体に広がってしまいました。

 列王記下4章を見ますと、この出来事に対処した預言者エリシャの姿が見事なのです。
 彼が何をしたかと言えば、聖書は「麦粉をまいて祈って毒を消した」と伝えています。
 普通の人でしたら、「若い者は経験がなく、毒ウリとそうでないものの区別もできない?危険な目にあわせて、一体何を考えているのだ」と、説教したかもしれません。
 ところが、エリシャはちがっていたのです。「若い人は経験がないために失敗するのは当然だ。
私たちも失敗を繰り返しながら一人前になってきた。知識や経験がないのは当然です」と言って、問題を神さまの御前に差し出し、神さまに毒を消していただいたのです。

 神さまのため、そして人のために一生懸命やろうとするときに、失敗することは有り得ることです。
この時、エリシャは一言も小言を言いませんでした。頭ごなしに命令をすることもありませんでした。
むしろ失敗した若者をかばって祈り、よかれと思ってやった、その「思い」を受けとめたのです。
そのような時、裁き心をもって小言を言うなら愛は働かなくなり、交わりは破壊されます。

 こんな時、あなたならどうしますか?エリシャは、神さまが愛をもってエリシャ自身にしてくださったように、周囲の人々と接していきました。
こうした関係の中で初めて、神さまの愛の御業が前進していったのです。

 もし職場や学校、教会の人間関係の中で、カチンと来ることが起きたなら、今日の御言葉を思い出してくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月19日

わたしのためにも祈ってください

「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(エフェソ6:19)

 英国にスポルジョンという名説教家がいました。彼は多くの人々をイエスさまへと導いた牧師でしたが、ある時、「先生、何故、あなたの説教はそんなに力強く、また霊的に深いのでしょうか」と尋ねる人がいました。
 するとスポルジョンは、講壇の後ろにあるカーテンを指差したのです。尋ねた方の人は、狐につままれたように、スポルジョンが言わんとすることが分りませんでした。
そのことを察したスポルジョンは、そのカーテンを少し開いたのです。するとカーテンの向こう側で多くの人が熱心に祈っていた、というのです。
 つまり、礼拝の間中、集会の最中、交替でスポルジョンを通して神が1人1人に語ってくださるように、と熱心に祈る人々があって初めて、自分は神さまに用いていただける、と言ったのでした。

 以前、ある方が私の部屋を訪ねてこられました。「エゼキエル書47章1節から12節を読み、祈っていたら、牧師のためにとりなしの祈りを捧げる必要性を示されました。
ですから、私は、毎週土曜日、礼拝堂でとりなしの祈りを捧げます」と言ってくださった方がおられました。ある土曜日に礼拝堂に行きますと、実際にその方は熱心にとりなしの祈りを捧げてくださっていました。
 「祈ってますよ」と声を掛けられる時、どんなに力強く、励まされる事かと思います。パウロもエフェソの教会の兄弟姉妹に対して、「ぜひ、私のために祈って欲しい」と願ったのです。

 素晴らしいことに、今、教会では「とりなしの祈り」の奉仕の輪が広がっています。
ぜひ、牧師のために、これからも祈ってください。そしてお互いのために祈っていきましょう!
それにより神さまの恵みが溢れますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

神の武具を身に着ける

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:11)

 あなたは「悪魔なんて本当にいるのか?」と思ったこと、ありませんか?
 でも、聖書は悪魔の存在を教えます。では、一体どのような者として聖書は教えるでしょうか。
ヘブル語で「サタン」、そしてギリシャ語で「アンティディコス」という言葉が使われていますが、これは「訴える者」、「敵対する者」、「試みる者」という意味があります。
 つまり、一言で言えば、悪魔とは、神さまと私たちの関係を破壊する者です。
そのことを目的として生きているわけですから、最初から神さまとの関係が問題にされないような状態にある時、悪魔は強く働かないでしょう。
でも、「御言葉に真剣に生きていこう」と心に決めて歩み始めるとき、つまり、私たちの信仰が目覚め、クリスチャンとして自覚的に生きることを始める時、
〈これは大変なことだ!〉と言って、目の色を変えて働くのが悪魔なのです。

 悪魔が目の色変えて動き出すのは、私たちが「隣人を愛しなさい」という御言葉を学んだだけではなく、御言葉に従って、〈現実に、隣人を愛そう!〉とし始めた時です。
 そして、もっと言えば、私たちが〈隣人を愛そう!〉と始めるときに、残念ながらそうすることの出来ない自分自身と出会ことでしょう。

 パウロは、そんな私たちの弱さという現実も想定した上で、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と言って、
私たち自身の無力さを素直に認めて、「神の武具」で身を固めつつ、神さまにより頼み、その偉大な力によって強くされ、
その結果、愛せない自分が変えられる経験をしていくように、と勧めているのです。

 こうしたことほど、悪魔の嫌がることはありません。

 あなたは、今日、神さまの武具(エフェソ6章参照)で身を固めていますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月15日

朽ちる冠を得るために

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(1コリント9:24−25)

 以前、なでしこジャパンが女子ワールドカップで優勝しました。歴然とした体格差、しかもまだ一度も勝ったことのないアメリカチームを相手に、本当に粘り強く戦ったものです。
 私自身も、ちょうど目が覚め、後半戦の開始直後から観戦することができました。何か力をいただいた思いがしました。
 ワールドカップで優勝するということは、並大抵の努力では出来ないことだったと思いました。
MVPに輝いた沢穂希選手は「夢は見るものではなく、夢はかなえるもの」と語っていましたが、そのためにどれだけ練習したのだろうか、と思いました。
 後半戦で相手チームに得点を許した時、あるいは延長戦においても追いついたのに振り切られるように1点リードされた時、正直、「もう、おしまい」と思いました。
でも本当に粘って粘って勝利を引き寄せていったのです。終わった後、物凄く感動している自分に気が付きました。

 さて、当たり前のことですが、選手はパスやドリブル、ヘディング、そしてシュートの練習。勿論、それだけではありません。
筋力トレーニングや柔軟体操や、メンタルの面でも、勝つためにありとあらゆるトレーニングをこなしてきたことだと思います。
人のことを批判したり、別のことに時間を使っている暇はありません。何しろ一生懸命に集中します。なぜならワールドカップで優勝することのできるのは一チームだけだからです。
 まさに「なでしこ」たちの「賞を得るような」節制は、私たちの大きな模範と励ましとなったことだと思います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする