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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年06月29日

「もっと、もっと」という生き方から解放される秘訣

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22)

 イエスさまは、「全て重荷を負うて苦労している者は、私の許に来なさい」と言われました。
決して「全て重荷を負うて苦労する者は、もっとしっかり働きなさい」とはおっしゃらなかった。「もっと頑張りなさい」とも言われませんでした。
 私たちの働きの延長線上に平安はありません。重荷をイエスさまにお任せして初めて平安という恵みが与えられます。
 努力の結果、何かを実現した結果、平安が与えられるか、と思ったらそれは大きな間違いです。
不思議なことに、努力し一生懸命頑張って何かをすると「もっとしなければならない」と必ず感じるものです。
 経済的なこともそうなのではないでしょうか。お金を貯めると、もっと貯めなければ、と思うのではないでしょうか。
子育てでも上手にいかないことが起こると、もっと親がしなければ、と思います。そのように「もっと、もっと」と思ってしまいます。
 何故でしょう? 心に平安がないからです。こうした生き方を一般に「律法主義的な生き方」と呼びます。

 逆に聖書が教えるクリスチャン生活とは、その「もっともっと」と内側から駆り立てる自分自身を神さまにお任せして、
自分の力でどうにかする生き方から、ぶどうの木であるキリストにつながって生きる生き方に切り替えていく。
それによって、主から平安をいただく生き方です。

 平安とは何でしょうか? それは神さまからいただくもの、ぶどうの木であるキリストにつながった結果、いただく恵みです。
平安は聖霊の結ぶ実と教えています。人間の働きで勝ち取るものではなく、あくまでも上からいただく賜物です。
平安はイエスさまにつながり、イエスさまが共にいてくださる時にいただく恵みなのです。

 ところで、今朝、あなたは平安ですか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月28日

父親サムエル

「サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行った。毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡り歩き、それらの地でイスラエルのために裁きを行い、ラマに戻った。
そこには彼の家があった。彼はそこでもイスラエルのために裁きを行い、主のために祭壇を築いた。」(サムエル記上7:15−17)

 今日の聖句は、サムエルの生涯を総括するような御言葉です。
 この聖句を読む時に、サムエルの多忙さが目に浮かぶ思いがします。家にいる時よりも、巡回で家を留守にする期間の方がはるかに多かったのでしょうか。
子どもの教育は妻にまかせっぱなしだったかもしれません。
 興味深いことに、聖書はサムエルの母親のハンナについては詳しく述べていますが、サムエルの妻について口を閉ざしています。
名前も出てこない、いや、それ以上に、一言も触れていないのです。サムエルと妻の夫婦の関係はどうだったのでしょうか?
 子どもが大きくなると父親の出番は増えて来ますが、特に日本の場合、夫が忙しく、家事や育児は最後まで奥さん任せの家庭が、けっこう多いように思います。
 同じようにサムエルも、家庭人としての責任をおろそかにしがちで、確かに公人としての責任は立派でも、私人としての責任を今日の聖句は問題にしているのかもしれません。
 そのような意味で、サムエルは、私たちにとって身近な存在のように感じます。何故なら、彼も、私たち同様に、自分の十字架を負って生きていたからです。

 さて、そうした私たちにとっての慰めは何でしょう? それは、イエスさまが「自分の十字架を負って従ってきなさい」と招いてくださることにあります。
「課題を抱えたまま私のところに来なさい」と招いてくださる。主は導きたいのです。みどりの牧場へとあなたと家族を導きたいのです。
問題があるのが問題ではなく、その問題を通していかに主に近づくことこそが大切なのですから。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月27日

まことの神さまを神さまとする

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19−21)

 あるカップルが婚約しました。その婚約のしるしに、男性が女性にダイヤの婚約指輪を贈ります。そして女性は男性のために、少し奮発して時計をプレゼントしました。
大切な相手が自分のことを思って買い求め、贈ってくれたものですから、それは宝物です。でも、その男性が婚約者以上に、もらった時計を大事にしたらどういうことになるでしょうか。
それは的外れの行為となることだと思います。その指輪や時計は相手への愛や思いを象徴するものであり、いくら高価な宝物であったとしても、婚約者にとって代わるものとは決してならないわけですから。

 「富」とは時として「宝物」となります。そして富それ自体は、決して悪いものではありません。でも、今日の聖句でイエスさまが問題としたのは「富」そのものではなく「富に対する態度」でした。
素晴らしいものの究極的な贈り主である神さまに、その素晴らしいものが取って代わったら、それは本末転倒、的外れとなるからです。

 ところで、昔から「山岳信仰」というものがあります。特に富士山の周りにはたくさんの宗教団体の施設があります。富士山は素晴らしい山だと思います。
何故、素晴らしいかと言えば、それをお造りになった神さまの作品だからです。作品は作者の素晴らしさが現れるものです。

 私たちは、しばしば神さまからのプレゼントと贈り主である神さまを混同する過ちを犯しますね。
 そうした過ちから私たちを守る秘訣は、まことの神さまを神さまとすることなのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月26日

限りなく優しい神の御手

「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)

 世界にたった1人でも常にあなたの味方になってくれる人がいたら、どんなに支えられることかと思いませんか?
 よくお話しすることですが、若い頃、説教の後、物凄く不安になることがよくありました。そんな時は必ず妻を捜します。
そして「今日の説教、どうだった?」と訊きます。すると必ず「良かったよ!」と言ってくれる。その言葉が聞きたくて妻を捜すのです。
説教の出来はある程度わかっているつもりです。だからこそ励ましが必要なのです。そのようにしてずっと、妻に支えられてきました。
 そして、実は他にもいつも味方になってくださる方がいる。愛の眼差しをもって支えてくれる方がいる。そうです。イエスさまです。
 季節はずれですが、リルケの「秋」の詩です。

木の葉が落ちる/落ちる/遠くからのように/大空の遠い園生が枯れたように
木の葉は否定の身振りで落ちる/そして夜々には/重たい地球が/あらゆる星の群れから
寂寥のかなたへ落ちる/われわれは皆落ちる/この手も落ちる/ほかをご覧
落下は全てにあるのだ/けれども/ただひとり/この落下を限りなく優しく/その両手で支える者がある

 確かに様々な出来事がある。否定的な出来事も多い。「落下」は全ての人にあります。
しかしリルケは、「けれども/ただひとり/この落下を/ 限りなく優しく/その両手で支える者がある」と断言するのです。
この「けれども」が大事です。この「けれども」が力になるのです。
 イエスさまが「神の愛の業が現されるためだ」と答えられたのは、様々な出来事の中にいるあなたをしっかと両手で、そして限りなく優しく支えるお方があなたの神なのだということを、
決して忘れないでほしいと強く願っておられるからなのです。
 今日、この限りなく優しい神の御手にあって健やかに歩まれるようにと祈ります。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

信仰の自己点検

「今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」(ハガイ1:5)

 イエスさまがお生まれになる5百年ほど前、ちょうどペルシャ王キュロスがエルサレム神殿を再建させるために捕囚のユダヤ人を解放しました。
 神殿再建の使命に燃えて帰って来たユダヤ人は、建設工事に着手するのですが、しばらくすると工事が中断するのです。それから18年間、中断は続きました。
 帰還当初、工事を支える生活の基盤を確保することの方が先だと言って、人々は神殿再建の手を休め、各自の生活再建を開始しました。
それから18年間もたっています。各自の生活も軌道に乗ってきました。中には貴重品の木造家屋に住む富裕層も現れて来たほどです。

 ところが、そうした彼らの心の中に、不思議なことが起こっていたのです。それは不満と欠乏感です。
いくら食べても満足がないのです。酒をあおるように飲んでも酔えないのです。一生懸命稼ぐのですが、それ以上に出費がかさむのです。
 そうしたユダヤ人に対して神さまは預言者ハガイを送り、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」と、自らの生活を神さまの御前に点検するように、と促したのです。

 イエスさまは「私たちの宝のある所に心もある」と言われたことがあります。
荒れたままに放置された神殿は、まさにそうしたことに価値を見出していない、ハガイの時代のユダヤ人の心の表れだったのです。
 この時、「神さまを信じていますか」と訊いたら、「当たり前でしょう」と答えたと思います。
でも、「神さまを信じます」という告白と神殿再建をほったらかして快適な生活を追及する彼らの実生活の間には大きな開きがあったのです。
 こうしたユダヤ人に対して主は、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」と言って、信仰の自己点検を迫りました。

今日、私たちも、もう一度、信仰の点検をさせていただきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年06月 | 更新情報をチェックする