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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年07月06日

神を神とする

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
(マタイ6:24)

 今日の聖句をある英語の聖書で読みましたら、「2人の神を同時に礼拝することはできません」と訳されていました。つまり、「私たちの真の主、真の主人は、神さまお1人でよし」ということです。
 エレミヤは神の民に語りました。「まことに、わが民は2つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜を掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」(エレミヤ2:13)
と語りましたが、まさに「水をお造りになった方と井戸を混同するな」と語られたわけです。
 振り返ってみればイスラエルの歴史はまさしく、神さまの賜物を神さまと勘違いする歴史でした。
 カナンの土地さえあれば安心、国家さえあれば安心、神殿さえあれば幸せ。まことの神さまにより頼むことをせずに、むしろ土地それ自体、国家それ自体、あるいは神殿それ自体を頼りにしました。
でも、土地も国も神殿は神からの賜物であり、それ自体が「神」ではないことを知らせるために、それら1つひとつの賜物は彼らから取り去られてしまったのです。
何故なら、本当に第1にすべき主なるお方へとイスラエルの民の心を向かわせたかったから。それが彼らにとっての一番の幸せだと神さまはお考えになっていたからです。

 よく、心には王座があると言われます。その王座は神さまの指定席です。でも神さまを忘れる時、他の物がその席に置かれることがあります。
 先ほどのエレミヤの言葉にあるように、生ける水の源なる神を捨て、自ら掘った水溜の水で渇きを癒そうとしても、再び渇くのは時間の問題でしょう。

 神さまを神さまとあがめましょう。そのお方こそ全ての善きものの源なるお方なのですから。

 いってらっしゃい。

 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年07月 | 更新情報をチェックする

2018年07月05日

命を得させてください

「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」
(詩編119:25)

 日本からの駐在員の家族が住むニューヨークのマンションで、たまたま2人のご婦人がエレベーターに乗り合わせたそうです。
ボタンに近い方の人が「どちらですか」と訊いたというのです。すると、訊かれた方の人は「白百合です」と答えたそうです。
 たぶん、訊いた方の人は、「何階のボタンを押しましょうか?」という意味で「どちらですか」と訊ねたと思います。
ところが、訊かれた方の人は、自分の出身学校の名を答えたというのです。

 子どもたちが小さい頃、我が家でもこんな話がありました。近所のお友だちが遊びに来て喧嘩になりお父さん自慢が始まりました。
段々とエスカレートし、最後に、そのお友だちが、「家のお父さんなんて、キャンピングカーもっているんだよ」と言った途端に、勝負が決まったようです。
我が家の子どもたちは反論できず、黙ってしまったことがありました。
 私たちは?自分の持ち物で自分の価値を確認します。より高いもの、希少価値のあるものを持っている人のほうがそうではない人よりも立派で?賞賛に値する。
したがって、心にエネルギーを必要とする人は、一生懸命そうするのです。
 でも、そうしたことって、長続きするでしょうか?本当に、私の心のエネルギーになるでしょうか?

 私たち人間は神さまから離れてしまいました。
本来、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きると言われている人間が、その命の言葉を下さる神さまから離れてしまったために、結局、自分で自分を満たすしかしょうがなくなってしまったのです。
その結果、物や他人を利用して満たそうとするのです。
 私たちの心には、神さましか満たすことの出来ない隙間があるのです。

 今日も、神さまの御言葉であなたの心を満たしていただきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年07月 | 更新情報をチェックする

2018年07月04日

「なぜ?」から「なに?」へ

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
(エレミヤ29:11)

 天才サーファー、ベサニー・ハミルトンさんの実話をもとにした映画、『ソウル・サーファー』を観ました。
 彼女は13歳でサメに襲われ、左腕を食いちぎられてしまうのですが、その後、立ち直って、現在は数々の大会で活躍しています。

 しかし、そこに至るまでは大変な苦労がありました。
片腕を失い、もう自分はサーフィンを諦めなければならないのではないか、という絶望感に襲われた頃、教会の中高校生会のユースリーダーに訴える場面があるのです。
それは、「何で自分だけがこんな目に遭わなければならないのか」ということでした。
 彼女の自叙伝にも、「みんなの前では、何食わぬ顔をしていたが、平気な振りができないときもあった。『何故、わたしがこんな目に?』と一秒ごとに考えてしまうのだ」と彼女は語っているそうです。
 その時、ユースリーダーはベサニーの訴えを真剣に耳を傾けるのですが、その時、彼女がベサニーに贈ったのが今日の聖句です。
 ユースリーダーは、この聖書の言葉を示し、「何故、神さまはこんな目に?」ではなく、「この出来事を通して、神さまは何を」と問うようにとアドバイスするのです。
 英語で言うならば、「なぜ?」という問いかけから、「なにを?」という問いかけに、彼女の人生がシフトしていくのですね。

 もし、あなたも何か大きな問題や困難に出会うような時、今日の聖句を思い出してくださいね。
そして「なぜ?」という問いかけから、神さまの御業、御計画に期待して、この出来事を通して「なにを?」と祈り求めていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年07月 | 更新情報をチェックする

2018年07月03日

クリスチャンとは

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(エフェソ2:19)

 以前、マッタの教会を訪問した時、サンパウロ空港に到着しました。そこには2つの通路がありました。1つは、ブラジル人用、そして、もう1つはブラジル人以外の外国人専用です。
そして、ブラジルに入ることができるということは、全く、ブラジル政府の好意に与るのです。つまり、国に入れていただけるかどうかは、相手の好意に100パーセント依存しているわけです。

 今日の聖句でパウロは、あなたがたは「外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者」と言いました。
これは、キリストの救いの御業にあずかって神の国の民になった私たちは、外国人専用の列ではなく、神の国の民の列に加わり、無審査で、無条件に天の御国へと入国が認められる存在であることを意味しています。
しかも、この地上にあって、すでに、天に国籍がある者として、プライドを持って生きることが許されている、ということです。そして「聖なる民」というのは神さまの所有になった、ということです。
 しかもパウロは、私たちを「神の家族」と呼んでいます。聖書が言う「家族」とは、ありのままの自分で居ていいところということです。
誤解を恐れずに言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることを、できる場、です。

 私たちが聖なる民であり、神の家族であり、聖霊の宮としての恵みの豊かさが、実は、全ての問題に先行するということを、パウロは説いています。
 この時のパウロは、囚人として不自由を経験していました。不満や不平を言い出したら切りがありません。
でもパウロはそうしなかった。なぜなら、囚人である前に天に国籍をもつ神の国の国民だったからです。また、神の家族に属する、神の子でもあったからです。
 この身分こそ、全ての立場に優先するものなのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年07月 | 更新情報をチェックする

2018年07月02日

こんな私をも

「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」
(ルカ5:27−28)

 ある日、イエスさまは収税所の前を通りかかってレビと言う名の男と出会ったのです。
 イエスさまの通りかかった「収税所」というのは、ユダヤ人の人々がローマに納めるお金を集めるところです。当時、ユダヤの人々は、収税所で働く人のことを「罪人」呼ばわりして、大変嫌っていました。
というのは、収税所で働く人々は、ローマに納めるよりたくさんのお金を人々から集めて自分のものにし、自分だけがお金持ちになっていたからです。
 イエスさまが収税所のそばを通った時、イエスさまの周りにいたたくさんの人々は、みんな嫌な顔をしてレビを見ていました。

 ところが、イエスはそうなさらなかった。むしろ、その人を「見た」と27節に出てきます。つまり、よく「ご覧になった」のです。
そして、イエスさまの方からレビのそばまで近寄って、彼に声をお掛けになった。「わたしに従いなさい」というのです。

 ところで、このレビは、福音書を書いたマタイです。マタイは主イエスの弟子となりました。なぜ、主イエスはユダに会計の労を取らせ、マタイを用いられなかったのか、とも思います。
そのような考えに私たちが走るときに、「主イエスに従う」ということは、自分でも気づかなかったような賜物が引き出され、それが豊かに用いられていく信仰の奇跡であることを覚えたいと思うのです。
 「さあ、ここに座りなさい。ここにあなたの場所がある!」と語りかけてくださる御方であり、居場所のない世界の中で、体を張り、命をかけて居場所を用意してくださる御方こそ、このイエスさまなのだということを確認したいと思うのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年07月 | 更新情報をチェックする