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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年05月31日

手を差し伸べて触れてくださるイエスさま

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」
(マルコ1:41−42)

 イエスさまがある町におられた時のことです。重い皮膚病を患った人がイエスさまのみ許にやってきました。この時代、重い皮膚病は大変恐ろしい病気でした。単に肉体的な病というだけではなくて、宗教的にも「汚れた者」として理解されました。
当時のしきたりに従えば、「重い皮膚病です」と宣告された瞬間、その人は家族・友人・家庭・生活・すべてを捨てて、同じ病気を患っている人と共に同じ集落に住み、身を寄せ合うようにして生きていかなければならない。
いや、生きていくというよりも、死ぬのを待つと言った方が適切かもしれません。
 さて、その病を患った人が人々の前に出るような場合、服を引き裂き、体をあらわにしながら「汚れた者!」と叫びながら歩かねばならないことになっていましたので、彼も、そのようにしてイエスさまのところまでやって来たのだと思います。
顔を地面にこすりつけるようにして「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」とお願いしたのです。
これに対してイエスさまは、ひざまずいている「この人」に手を伸ばして触れられたのです。口をお開きになる前に?手を伸ばして?、この全身重い皮膚病に犯されている人に触れた、というのです。
何年も、重い皮膚病の者同士の隔離された生活でした。久しぶりの手の感触。彼の皮膚病に犯された肌が感動で鳥肌が立ったのではないかと思います。〈うつるかもしれないのに。私にさわることは、律法を犯すことになるのに〉。
彼は治してもらうことも忘れる程、感動したのではないかと思うのです。

本当に素晴らしいイエスさまですね。このお方が今日もあなたにも触れ、そして共におられます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年05月 | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

生まれる前から

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。」(エレミヤ1:5)

 神さまというお方は、母親のお腹に命が芽生える前から、あなたのことを知っているお方ですね。お母さんも気づかない先から、神さまは私たちの一人ひとりを知っているというのです。

 幼稚園のお誕生会で歌われる讃美歌に「生まれる前から」という讃美歌があります。こんな歌詞です。

「生まれる前から神さまに/ 守られてきた 友だちの/ 誕生日です おめでとう」

 「生まれる前」を超えてさらにその前から、神さまは知っていて愛していてくださる。旧約聖書で「知る」という言葉は「愛する」という言葉でもあります。
これが、あなたへの神さまからのメッセージなのです。

 神さまは、あなたが見てもらいたいと願っている部分だけではなくて、隠しておきたいと思っている部分も、神さまはご覧になっています。
それでもなお、神さまはあなたを大事に思っておられ、宝物のように大切にしてくださる。
なぜでしょう?神さまがあなたをあなたとして造られたお方だからですね。

 本当に不思議ですが、聖書は、神さまがあなたを母親の胎内で造ったが故に、あなたを愛し、最後まで守るということを約束してくださっています。本当の意味での親心ですね。
 このお方の変わることのない愛に支えられて初めて、自分の様々な課題や、難しい現実と向き合う勇気が与えられるのではないでしょうか。
 今日の聖句はエレミヤに語られていますが、実はあなたにも語られている言葉です。

 私たちは、母親の胎内に造られる前から、神さまに知られ、それからずっと愛されている。そのようなお方がおられるならば、どれだけ心強いことだろうか、と思いませんか!
 そして、そのお方こそが、私たちを愛するイエス・キリストの神さまであることを、今日、覚えていただけたらと願います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年05月 | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

本当のふさわしさ

「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」
(ルカ7:6)

 百人隊長がいました。その部下が重病を患ったのです。考えた末に〈イエスさまに助けていただこう〉と思い、ユダヤ人の長老たちに相談しました。
さっそく長老たちはイエスさまのところに行き、隊長の願いを取り次ぐのです。その結果、部下の病はイエスさまによって癒されていきます。

 さて、この百人隊長は自らを「ふさわしくない」と見ていました。程度の差はありますが、私たちも同じように「ふさわしくない」と思うことがありますね。
人が自分をどう見ているかで、心が傷つき自信を失うことがあります。でも本当に大切なのは〈人がどう見るか〉や〈自分が自分をどう見ているか〉ではなく〈神がどう見ておられるか〉です。

 聖書は、神があなたを「愛する者」と見ておられることを伝えています。その証拠に神は十字架によって赦しの愛を示されました。
私たちは愛されている存在なのに、心のチャンネルが合っていないがために、神の愛を実感できずにいる。ここに不幸の原因があるのです。

 ですから、まず祈りつつ神さまの語り掛けを聴くことです。
 勿論〈人がどう見ているか〉を知ることも時には大事でしょうが、多くの場合、神さまが語り掛ける愛に耳を傾けず、逆に周囲の冷たい視線や言葉を相手にし過ぎて、どれだけ傷を負っているかと思います。
 いや、周囲の人はそう見ていなかったとしても、「自分はダメだ」と不安を持ちながら人々からの視線を解釈しようとする時、
そうした心の不安や心配が、相手の瞳に投影され、〈やっぱり、そうだったんだ〉と何か確証を得たように思い、鬱々した心の悪循環に落ちていくようなことはないでしょうか。

 百人隊長は、ユダヤの長老たちからの評価でもない、また自分自身の評価でもない、イエスさまの御言葉に、自分をかけていったのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年05月 | 更新情報をチェックする

2018年05月28日

神さまの愛を知ったなら

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
(ルカ7:47)

 ある日、シモンは、イエスさまを食事に招待しました。ところが、その食事の席に、その町でも有名な「罪深い女」が入ってきたのです。
彼女が、見つかれば「お前みたいな奴は出て行け」と、家の外につまみ出されるのが関の山だった事だと思いますが、そうした危険を冒しながらやってきました。
それ程までにイエスさまにお会いしたかったからです。

 彼女は、後ろから遠慮がちに近寄りました。感極まってか、目から涙が落ちて来たのです。
その涙が、習慣にならい足を伸ばしながら食事をしていたイエスさまの足にかかってしまった。彼女はとっさに、自分の長い髪の毛でもって、涙を拭きました。
イエスは、足を引っ込めることもせずに、彼女のなすがままにされたのです。彼女は、その足に接吻して香油を塗ったというのです。

 見ていたシモンは心の中でイエスさまを批判しました。
これに対してイエスさまは「あなたに言いたい事がある」と言って1つの譬え話を紹介し、「赦される事の少ない者は、愛することも少ない」と語られたのです。
 イエスさまに近寄り、涙が止まらなくなり、その足に口づけし、高価な香油を注いだ女性も、悪いことをしたために町の人々からは責められていた人でしょう。
でもイエスさまは責めませんでした。彼女の全部を赦し、心から愛されました。その驚くような愛に対し、今度は彼女の方から自分にできる精一杯を捧げイエスさまへの愛を現したのです。
 イエスさまに赦され、助けられ、愛されることのない人はいません。ただ、そのことに気づいていない人は大勢います。

 あなたは、いかがでしょうか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年05月 | 更新情報をチェックする

2018年05月25日

喜ばしいつまずき

「わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:23)

 先日、ある方が、こんな話をしてくださいました。
 詩編23編を読んでいて、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という言葉に心が留まったそうです。
 今まで自分を追いかけてきた言葉は、「駄目だ、駄目だ」というような言葉だった。そうした言葉がいつも自分を追い立ててきた。
でも、この言葉を読むと、「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と書いてある。「駄目だ、駄目だ」という言葉が追いかけるのではない。
そうではなくて、神さまの恵みと神さまの慈しみが私の方に迫ってくる。

 私はこのお話を、共感をもって聴かせていただきました。
 聖書を見ますと、神さまは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と真剣に語ってくださっています。
そのことを伝えるために、2千年前にご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったほどです。
それこそ逃げる私を追いかけ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、愛の告白をしてくださるお方が、私たちの神さまですね。

 いかがでしょう。これは大きなつまずきです。「自分は駄目だ」と思っている、そのように信じ込まされてきた私たちにとっては、本当に大きなつまずきです。

 でも、どうでしょう。それは本当に必要で、喜ばしいつまずきでもあるのです。
神さまは、こんな私を追いかけて来てくださり、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、告白してくださる。
この告白をしっかりと受け止めて生きて欲しい。それが神さまのあなたに対する期待であり、神さまがあなたに対して心から願っておられることなのです。

 あなたのはかりで、神さまの御思いを割り引かないでくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年05月 | 更新情報をチェックする