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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年03月30日

「祈りの家」にしてください

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」(マルコ11:17)

 以前、息子の部活の応援に行きました。長崎県代表との戦いでしたが、思いのほか、苦戦したのです。
その時、心の中で「どうか神さま、勝たせてやってください。息子のシュートも決まりますように」と何度か祈ってしまったのです。
 ところが〈何て身勝手な祈りなのか〉という声が心の中に聞こえてきました。息子たちのチームは最後まで一生懸命に戦ったのですが、結果は敗退でした。
 その後、神さまは、私にどのように祈ってほしいと願っておられたのか、と考えさせられました。

 祈りとは何でしょう?それは、神の力を利用し、私が願うものを自分のものとし、私の思い通りに事を動かすためのものではないのです。
祈りとは、神さまの御心を探り、神さまの御心に触れ、私たちの心が神さまの心と一つとなるための手段です。

 受難週の月曜日、イエスさまは、人々が「祈りの家」を強盗の巣にしてしまった、と言って嘆かれました。
強盗とは法を犯してまで自分の利益を追求する人、欲望を満たすために相手の不利益などかまわずに求めていく人のことです。
 礼拝に来て、自分の思いだけを神さまに申し上げて、神さまの御思いに耳を傾けず、知ろうともしなかったとするならば、それは、強盗と同じだ、とイエスさまは言われます。
 私たちは、どこまでも自己中心で、自分さえよければという思いが心の深くにあります。
自分や家族が大切にされていれば、他の人がどうであろうと、自分には関係ないという心の姿は、この社会の中に、いや教会の中にさえもあるものです。
これこそイエスさまが清めようとなさった罪です。
 私たちは「祈りの家」として召されています。そうであるならば、自分の利益のみを求める生き方を方向転換し、主の御心を求めて生きる者に清めていただきたいですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年03月 | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

危機に直面して

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
(1ペトロ4:7−10)

 ペトロは、迫害下の教会にこの手紙を書きました。
 第1に、ペトロは「万物の終わり」を意識しつつ語っています。
 3.11以降、私たちは、今までの歩みを否が応でも振り返らされる経験をしています。「終わり」を意識させられ、そうした上で改めて命の尊さに気づき、今、この時をどのように生きるかを、神さまの前に問い直すようにと導かれています。

 第2に、どなたかが「今まで私たちが使ってきた“絶対”とか“安全”という言葉がいかに虚しいものであったか」と語っていましたが、こうした人類の高慢に対しペトロは「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と勧めています。
思慮深くある時、限界に気づかされ、慎みを覚えることができます。そして初めて、神さまにより頼む、真剣な祈りが起こるのです。

 第3に、残念なことに私たちは、危機に直面するとすぐに互いを責め合ってしまうことがあります。でも今は責め合っている場合ではありません。
私たちに与えられている「ちがい」に心を集中する代わりに、今こそ心を高く上げ、神さまがどのようなお方なのか、御心は何かを一致を求めていくのです。

 ですからペトロは、「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」と勧めています。そして愛の具体的な表現として与えられている賜物を生かしあって、互いの必要に応えていくようにと励ましているのです。
 主のお守りを祈ります。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年03月 | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

一つになるために

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17:20)

 最後の晩餐の席上で、イエスさまは「大祭司の祈り」と呼ばれる長い祈りを捧げられました。その一節が今日の聖句です。
 ここでイエスさまは「彼らのためだけでなく」と祈られましたが、この「彼ら」とは、ここに居た11人の弟子たちのことです。
 では、その「彼らの言葉によって私を信じる人々」とは誰のことでしょうか?使徒の宣教の実、使徒が残した聖書の言葉を通して信仰をもった者たちのこと。
すなわち、それは、他でもありません。私たちのことです。

 2千年前のあの受難週。あの最後の晩餐。あの2階座敷において、イエスさまは、あなたや私のことを覚えて執り成しの祈りを捧げてくださっていた!これは何と素晴らしいことでしょうか!
 「義人の祈りは聴かれる」と聖書に教えられていますが、ましてや御子の祈りは必ず聴かれるはずですね。

 では、この執り成しの祈りの中身は何だったのでしょうか?それはクリスチャンが「一つになる」ということでした。
 私たちの教会が、主の御心において一つになること。様々な違いが、お互いを補い合うように作用し、互いの持ち味が生かされるような意味で一致することができるように。
そして勿論、争いや敵意や仲間争いなどの「肉の業」が砕かれ、聖霊の実である「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実を結ぶ私たちであるように、
主イエスさまは、必死になって執り成してくださったことを、今日、もう一度覚えたいと思います。
 その為にも、キリストが父なる神の愛にとどまりつづけたように、キリストの愛にとどまりましょう。同じぶどうの木であるキリストにつながることにおいて、一つとされていきましょう。
そのことを心にとめてこの1日を歩んでいきましょうね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年03月 | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

キリストへの信頼

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)

 今日の聖句は、イエスさまの目の前に、混乱し、これからどうしたらよいのか、全く分からずに途方にくれている11人の弟子たちに対して語られた御言葉です。
 彼らはここまで、家族や友、仕事、また弟子となるには持っていけない、あらゆる物を捨てて、イエスさまに従ってきた者たちでした。
そうした彼らに対してイエスさまは、「わたしが行く所に、あなたたちは来ることができない」とお語りになりました。
 そこに居た弟子の中のリーダー格のペトロは「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、自分も命を捨ててついていきたい、と申し出ますと、
「鶏が鳴く前に、あなたは3度、わたしを知らないと言うであろう」とお語りになりました。
 ですから、この時、イエスさまの口から出る一つひとつの言葉は、一層、弟子たちの心を困惑させていったのです。

 このようにして、すでに、心の中が嵐のようになっている者たちに向かって語られた言葉が、今日の聖句です。
 ここでイエスさまは「信じなさい」、「神を信じ、わたしを信じなさい」とお命じになりました。ここは、少なくとも2つのことを意味しているように思います。
 第1は、自分の力や知恵に信頼を置くことを断念しなさい、ということ。
そして、第2に、神さまの力、イエスさまの力と、神さま、イエスさまが信頼にたるお方であることを確信しなさい、ということであります。
 信頼しようとする相手の人に能力や力があったとしても、その人を信頼するためには、その人の人格や人柄が問題となるものです。
 イエスさまというお方は、力においても人格においても信頼に応えるお方なのです。
 今日、聖書を通して祝福と守りを約束された、その御言葉を信じて歩んで行きましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年03月 | 更新情報をチェックする

2018年03月26日

この上なく愛し抜かれるイエスさま

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとに移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
(ヨハネ13:1)

 今日から、受難週祈祷会が始まります。今日はヨハネ福音書から主の受難のあとを追っていきたいと思います。
 ヨハネ福音書は21章まであります。初めの12章分は十字架におかかりになる前夜(木曜日)の出来事以前の公生涯を記録していますが、今週、読み進める13章から21章にわたる9章分には、最後の晩餐、十字架、そして復活と、イエスさまの御生涯のクライマックスを記録されています。
こうした紙面の割き方からしてヨハネがこの福音書を通して伝えたかったことは、十字架に現された神の愛であったことが明らかです。
 その証拠に、ヨハネは、福音書の1章から12章で「愛」という言葉と「愛する」という言葉を合わせて9回使っていますが、最後の晩餐が行われた木曜日の出来事、そしてその場で語られた教えを記す13章から17章のわずか5章の中で、この「愛」や「愛する」という言葉が13回も出てくるのです。
つまり十字架前夜の2階座敷での教えの中心が「愛」であったということが分かります。

 ご存じのように、以前からヨハネは「雷の子(ボアネルゲス)」と呼ばれていました。
 ところが、そうした彼がイエスさまと出会い、神さまの愛を一生懸命説く弟子に変えられていったのです。
 このことを示すかのように、今日の聖句には、「イエスは、この世から父のもとに移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。
 あなたも、ヨハネと同じように、主イエスさまから「この上なく愛し抜かれ」ています。
 今日、そのことを覚えて一日を過ごしてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年03月 | 更新情報をチェックする