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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2018年01月31日

イエスというお方

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」(ルカ5:13)

 ある日、イエスさまのところに重い皮膚病を患った人がやってきました。
 当時のユダヤ社会では、人が重い皮膚病と宣告された瞬間、全てを失いました。ある意味で死の宣告と同じです。
 その彼が、病気でクチャクチャになった顔を地面にすりつけるようにして「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。
〈もうこの方しかおられない!〉という、捨て身の願いでした。

 でも彼の心には1つだけ心配がありました。それは主が自分を癒そうと思ってくださるかどうか、ということでした。ですから「御心ならば」と条件を付けて願ったのです。
 自信を持てない時に、相手も自分をそのように見ているに違いないと思いこむことがありますね。この時の彼もそうだったのです。
嫌われ者でしたから、イエスさまにも嫌われると思ったのです。

 さて、この彼に対し、イエスさまは、手を伸ばして触れられたのです。
久しぶりに人の手の感触を感じながら彼は、〈感染するかもしれない、律法を犯すことになるのに・・・〉、癒しのことなど忘れる程、感動したのではないかと思います。
 それだけではありません。「手を差し伸べてその人に触れる」とは仲直りを示す行為で「和解の手を差し伸べる」という意味があるそうです。
 何年も聖なる所から一番遠い場所に閉じ込められていました。人間として生きる権利を奪われた生活でした。生命と身体はあるのです。いや心もありました。
でも人としての身の置き場がなかったのです。

 イエスさまは触ってくださり、何と、和解の手を、そのお方の方から差し出し、神の恵みの中心へと招きいれてくださったのです。
 イエスさまって、本当に素晴らしいお方ですね!
 このお方が、今日もあなたと共におられます!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:05| 2018年01月 | 更新情報をチェックする

2018年01月30日

天につながる生き方を心がける

「富は、天に積みなさい。」(マタイ6:20)

 以前、あるキリスト教雑誌を購読し、その中のジム・コンウェイ牧師のコラムを毎回楽しみに読んでいました。
ところが、ある時、突然、そのコラムが取りやめとなったのです。
 その後、調べ物をしていた時に偶然「ジム・コンウェイ」の名前を見つけたのです。調べてみると『中年危機に直面する男たち』という本を書いていることが分かりました。
さっそく注文し、読み始めました。

 その本の中に、あの時、突然コラムを中断した経緯が書かれていました。彼は「中年危機」に直面し、全ての責任を放棄して、逃げ出してしまったということでした。
一生懸命やっている仕事も、いずれ誰かにバトンタッチしなければならないと気づいた途端に、全てが虚しく感じられたのだそうです。
 これは誰もが感じることではないでしょうか。
「自分がいなければ会社はきっと動かないだろう」と、退職後そのことによって自らの存在価値を見出したいと思いつつ、職場の様子を訊くと、会社はスムーズに動いている。
いや、自分が居た時よりももっと皆が生き生き働いているように見える。あるいは、そうしたことを想像しては虚しくなるというのです。
 汗水流して蓄えてきた財産も然りです。天国に持って行くことはできません。ヨブが言うように「裸で生まれ、裸で召されていく」のです。
 そう考えると、何ともいえない虚しさに襲われる。これがコンウェイ先生の経験した「中年危機」の中身です。

 ところで、聖書は「中高年の危機」の背景に「人生、死んだらおしまい」という誤った人生観が横たわっているのだ、ということを気づかせてくれます。
 これに対して聖書は、「人間の人生は、死でもっておしまいではない」という新鮮な真実を明らかにしています。
 ですから、クリスチャンが求める生き方とは、天につながる生き方を今から心がけていく、ということなのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年01月 | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

あがめることと仕えること

「『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。
『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』」
(マタイ4:9−10)

 洗礼を受けた後、イエスさまは荒野に導かれ、サタンの誘惑を受けました。そこでイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお語りになりました。
 この言葉には深い意味があります。それは、《人間は、その人の拝むものによって支配される》という真理です。
 方位や方角、暦を気に掛ける人は、方位や方角、暦によって心が支配されます。
 お金をあがめる人はお金によって支配されます。
 人に好かれたい、気に入られたいと、人気をあがめるならば、周囲の人々の気持ちの変化によって、その人も浮き沈みするものです。
 会社が「カミ」ならば、最終的には会社に支配されていくでしょう。バアルを拝む人は、最終的にはバアルを創りだした自らの欲に支配されていくのです。
 これに対しイエスさまは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と語り、「あがめること」と「仕えること」とが深く関係していることを教えてくださいました。

 私たちが礼拝すべき対象はイエス・キリストの神さまです。
そしてそのお方を礼拝して生きる時に、私たちは、その神さまに仕える者として整えられ、そのお方の恵みを反映させる者として確かな人生へと導かれていきます。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。このイエスさまの教えを大切にしていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年01月 | 更新情報をチェックする

2018年01月26日

キリストについて知ることとキリストを知ることのちがい

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)

 アントニー・デ・メロというクリスチャンが『小鳥の歌―とても短い123の物語』という本を書いています。
その中に「キリストを知ること」というタイトルの物語がありました。
 そこには、つい最近、クリスチャンになった人と彼の友人との間に交わされた次のような会話が出ていました。

 「そこできみはクリスチャンになったというわけだね?」
 「そうだよ」
 「ではきみ、キリストについてたくさんのことを知っているにちがいない。話してくれたまえ。彼はどこの国で生まれたの?」
 「知らないよ」
 「死んだとき、何歳だったの?」
 「知らないよ」
 「彼がした説教の数はいくつ?」
 「知らないよ」
 「きみはキリスト教徒になったけれど、キリストについて殆ど知らないんだね?」
 「そのとおりさ。キリストについて殆ど知らないことが恥ずかしい。でも、これだけは知っている。3年前、ぼくは酔っ払いだった。借金があった。
  ぼくの家族はバラバラになってしまっていた。妻と子どもは、毎晩、ぼくが家に戻るのを怖がっていたんだ。
  でも今、ぼくは飲むのをやめた。借金もない。ぼくの家庭はしあわせだ。子どもたちはぼくの帰りを毎晩とても待ち望んでいる。
  これはみんな、キリストがぼくにしてくれたんだ。ぼくはキリストについて、このことだけは知っているんだ!!」

 そして、アントニー・デ・メロは、その文章を次のように結んでいました。
「ほんとうに知ることは、知っていることによって人間が変わることです。」
あなたはキリストをどのように知っておられますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年01月 | 更新情報をチェックする

2018年01月25日

あなたは、どなたですか?

「祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」(ヨハネ1:19)

 以前、元アメリカ大統領であったジミー・カーターさんの証しを聞く機会があり、その謙遜さに心打たれました。

 彼は、4年間の大統領の務めを終えた後、平和のために尽くしてきました。2002年にはノーベル平和賞も受賞しました。
 今、年齢的には80歳を超えていますので、政治やビジネスの世界からは引退しましたが、しかし、神の子、クリスチャンとしては現役なのです。
 アメリカのジョージア州のプレインという名前の街だったと思いますが、その小さな教会に通っています。教会員は40名弱の教会です。そこで、今でも教会学校の先生をしています。
実際に何年生を担当しているのか、あるいは、成人クラスを担当しているのか分かりませんが、いずれにしても自分よりも若い人のために、自らが神さまから受けてきたものを、一生懸命継承していこうとする姿に大変心打たれました。

 カーターさんの場合は大統領という「上着」を脱ぎました。同じように、私たちもまた、様々な役割という「上着」を脱ぐ時が来ることでしょう。
でも、最後まで変わらないものがあります。それは「神の子という身分」、「クリスチャンとしての私という立場」です。
 カーターさんの生き方を通して、そんなことを改めて感じさせられたことです。
「あなたは、どなたですか?」と問いかけられたように思いました。

 ところで、あなたは、どなたですか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2018年01月 | 更新情報をチェックする