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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2017年11月30日

ガリラヤで復活の主と出会う

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(マルコ16:7)

 十字架の3日後、空の墓を訪れた女性たちは、そこで復活の主に出会いました。主は彼女たちに対して「そこ(ガリラヤ)でお目にかかれる」と約束されたのです。
 「ガリラヤ」とは、弟子たちが最初にイエスさまと出会った場所です。そこで召され、教えられ、愛され、イエスさまと多くの時を共に過ごした思い出の場でした。
復活の主は、その「ガリラヤ」であなたがたと会おうと、約束されたのです。

 ところで、あなたにとっての「ガリラヤ」とはどこでしょうか?
 そこは、あなたにとっての住み慣れた場所です。泣いたり笑ったりする生活の場であり、神さまから遣わされている家庭や学校、あるいは職場であり、今、置かれている人間関係です。
 わたしたちは時々、苦しい事、辛い事に遭遇すると、〈ここから抜け出したい。この家、この人間関係を離れることができれば、どんなに幸せになれるか〉と考えます。果たして、そうでしょうか?
 問題がなくなることによって幸せを得る、と考えたら、一生、幸せを得ることなどできません。なぜなら、問題の中に神の祝福があり、問題があるので、祈りを通して主と出会い、問題の中にイエスさまが働いてくださるからです。
 南の国では冬がなく、樹木に年輪が堅く刻まれないので、それらは建築には不向きだと言われます。それに対し寒い所の樹木は、冬の間に年輪が堅く刻まれ、しっかりとした堅い樹になるため、家を建てることに適した材木となります。

 あなたの生活の場が「ガリラヤ」であるとすれば、そこでの出来事や課題をもって主のみ前で祈り、御言葉を聞くことを通して、そこが私の主との出会いの場となるのです。
 今、あなたは、辛さを経験していますか?もしそうならば、その場こそ、実は主があなたと出会う「ガリラヤ」なのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年11月 | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

数えよ、主の恵み

「見よ、イスラエルを見守られる方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。/主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。
 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。/今も、そしてとこしえに。」(詩編121:4−8)

 私は小さい頃からしょっちゅう熱を出して学校を休むような体の弱い子どもでした。今は、皆さんの祈りに支えられ、あまり風邪をひかなくなりました。
それでも病気になって床についている時など、改めて健康のありがたさを覚えることがあります。

 いつの間にか何でも当たり前になってしまっている自分に気付き、ハッとさせられるのです。
 当たり前のように起きて、当たり前のように一日を過ごし、当たり前のように夜を迎える。
しかし、今日の詩編の作者は、信仰の目をもって、この「当たり前」の背後に神さまの守りの御手があることを、見ています。
 《当たり前》というのは恐ろしいものですね。恵みだったことが、いつしか不満の原因になることさえあります。
ですから、この作者は、「あなたを見守り」と祈った後に、「あなたの魂を見守ってくださるように」と、心の中心であり、神さまの御言葉を受け止める「魂」が守られるように、と祈っているのだと思うのです。

 このような視点をもって、日常生活を見渡すと様々な恵みに溢れていることに気付きます。そして、その信仰の目を神さまに向ける時、最大の恵みのプレゼントであるイエスさまと出会うのです。
 ところで、今日、あなたの周りに、どんな恵みが用意されていますか?
 それらを1つひとつ捜してみてください。そのようにして、あなたの心が、感謝と喜びで満たされますようにと祈ります。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年11月 | 更新情報をチェックする

2017年11月28日

御心において一致する

「わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。」(ネヘミヤ3:38)

 バビロン捕囚後の時代、ペルシャ王に献酌官として仕えていたネヘミヤの心に、神さまはエルサレムの城壁を再建せよとの御心をお示しになりました。
 ところで、神の働きは内容においてもスケールにおいても豊かなもので、1人の人間でカバーできるようなものではありません。
多くの人々の協力があって初めて実現するものです。
 そうした中ネヘミヤは、イスラエルの民に対し自らに示されたビジョンを人々と共有するところから始めたのです。
その結果、多種多様な人々が御心において一致し、城壁再建に汗を流していくことになりました。
 ネヘミヤ記によれば、ざっと数えて最低でも39の異なるグループの人々がこの工事に参加しています。また、働き人も多種多様でした。
大祭司?祭司、レビ人、鋳物師?香料調合師、地区区長、商人、使用人、男性、女性。
ある人々は家族をあげて働き、自宅近くの壁を修復する人、公務として参加する者、そして当然のことですが働きに参加しない人々もありました。
 でも、共通していることは、働きに参加した人々が、託された役割を理解し、その責任を引き受けていたということです。
御心が共有され、御心が多種多様な人々の心を一つに結び付けていったのです。この結果、民は働く意欲が与えられたと聖書に出て来ます。

 私たち高座教会にも、神さまから特別な目標が示されています。

「私たち高座教会は、この地域を〈キリストの福音〉で満たし、神の国を実現するために召されています。
そのために、〈信仰生活の5つの基本〉を土台に、〈3つのめざすもの〉を柱とし、〈4世代が喜び集う教会〉を建て上げていくことを祈り求めます。」

 ぜひ、この目標に向かって1つとなって汗を流していきたいと願います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年11月 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

キリストから教えられる

「キリストに結ばれて教えられ・・」(エフェソ4:21)

 私にとって忘れることの出来ない信仰の経験があります。
 大学1年生の時に、キリスト者学生会で「聖書の読み方」の訓練会がありました。
アメリカ人の主事が、本当に丁寧に、手取り足取り導いてくださったのですが、その時に「何がかかれているか(観察)」、「それはどういう意味か(解釈)」、そして最後に、「今の私にとって何を意味しているか(適用)」という3つのステップを踏んで聖書を読む訓練を受けました。
あの時に学んだことは、牧師になった今でも有効です。

 ところで、学生時代、その主事から他にもたくさんのことを学びました。
 ある時、「どこで、誰から学んだのですか」と主事に訊ねたことがあります。当時、献身を考えていた私は、その主事の出身神学校を知りたいと思ったからです。
 すると主事は、一呼吸置いて、「私はイエスさまから学びました」と答えられました。
 その答えに何か不思議な衝撃が強く私の体を走り抜けていく感じがしました。それは、ちょうど今、その主事から教えを受けているのが、イエスさまに直接お会いして、イエスさまから学んでいるかのようでした。
主事とイエスさまとの交わりが本当にリアルなものであることがよく伝わってきて、「私も、そうしたイエスさまとの親しい交わりをいただきたい」と真剣に思うきっかけになりました。

 よく「キリストを知る」ということと「キリストについて知る」の間には、大きなギャップがあると言われます。
「キリストについて」と言う場合、そこでは、あいだに人を介してもいいかもしれませんが、パウロが、エフェソの手紙の中で「キリストに結ばれて教えられ」と言った場合、それは、キリストとの個人的で親しい関係がなければできないことです。

 キリストに結ばれ、キリストから直接聴く機会をたくさん持ちたいものですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年11月 | 更新情報をチェックする

2017年11月24日

信仰者の主体性

「『今や、わたしの神、主は周囲の者たちからわたしを守って、安らぎを与えてくださり、敵対する者も、災いをもたらす者もいません。
ここに至ってわたしは、わたしの神、主の御名のために神殿を建てようと考えています。』」
(列王記上5:18−19)

 ある時イエスさまは、弟子たちに「人々はわたしのことを誰だと言っているか」と訊ねました。
すると弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」「預言者の一人」と人々が言っていることをイエスさまに伝えたのです。
すると弟子たちをご覧になり「それでは、あなたがたはわたしを何者と言うのか」と訊ねたのです。

 ところで、高座教会は「四世代が喜び集う教会」を祈り求めています。私は一代目クリスチャンですが、教会の中には幸いなことに四代目クリスチャンの方も結構おられます。
しかし信仰が代々続く中、ともすると受け身的な信仰になることがあるので、父母や祖父母の世代から受けた恵みを、もう一度、自分のこととして受け取り直すことが大切になってきます。
 イエスさまの「あなたはわたしを何者と言うのか」という問いは、あなたの人生で最も大切な問いかけではないでしょうか。
 ソロモンは、父ダビデの信仰を自分のこととして受け取り直していました。その結果、「わたしの神、主」と祈れたのです。
勿論「わたしたちの神、主」と言ってもよかったでしょう。何故、「わたしたち」とは言わずに「わたしの」と言ったのでしょうか。
それは、父が信じ、父を支えた神は、今の自分を支え、生かし、導いてくださるお方であると確信していたからです。ソロモンは主との出会いを経験していたからです。
 「わたしの」と言って主を独り占めしているわけはありません。むしろ主体的に主への信仰を表明して生きている姿があるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年11月 | 更新情報をチェックする