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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2017年10月31日

わたしも良い方を選ぶ

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41−42)

 ある時、イエスさまは弟子たちを引き連れてエルサレム近くのベタニヤにあるマルタとマリアの姉妹の家を訪れました。迎えたマルタとマリアの姉妹は、一生懸命、料理しました。
 ところが、マルタが急にイライラしてきたのです。忙しくなってきたからです。
そんな時に、今まで一緒になって立ち働いていた妹のマリアが台所から姿を消し、イエスさまの膝元に座って話に聞き入っている姿が目に飛び込んできたのです。
怒ったマルタはイエスさまに食ってかかりました。

 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。
イエスさまもイエスさまです。こんな忙しいのに、妹に何か言ってやってください!」と怒ったのですね。
くつろいだ雰囲気は一気に消され、イエスさまも、そしてイエスさまの一行もいたたまれない思いになったのではないかと思います。

 こうしたマルタに対して語られた言葉が今日の聖句です。そして、この御言葉が語られた結果、ある意味でマルタは、岐路に立たされたと思います。
 つまり、マリアやイエスさまに対してイライラした態度を選択するのか、それとも台所での働きを中断し、マリアの隣でマリアと同じように「良い方」を選ぶのか・・?
 私たちの人生には、そうしたどちらを選ぶことも出来る選択の自由が与えられているのですね。あなたは、今、選択をすべき岐路に立たされていませんか? あなたは、どちらを選びますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年10月 | 更新情報をチェックする

2017年10月30日

イエスさまの荷物を共に担う

「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:30)

 ご存じのように軛(くびき)とは荷物を引っ張る家畜の首にかける道具ですね。
2つの穴のうち片方はイエスさまの首にかかっていて、もう片方の穴にあなたの首をいれてごらんなさい、とイエスさまが招いておられるのです。
そうすると、イエスさまの軛は負いやすく、イエスさまの荷は軽い、というのです。

 私たちの日常は、神さまによって与えられている使命や召命に満ちています。例えば、私が高座教会の牧師として奉仕させていただいているのも、神さまの召しによります。
AさんがBさんの妻であることも、神さまの御許しがなければ起こらなかったことです。ですから、これも召命です。
つまり、あなたの仕事も、あなたが困難を感じている方との人間関係も、実はイエスさまの働き、イエスさまが託してくださっている召しであり、イエスさまが与えてくださっている荷物なのです。

 イエスさまが、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われる背景に、あなたが重いと感じている責任が元々はイエスさまのもので、それをイエスさまが共に担ってくださる、このことが信仰生活なのですよ、と教えてくださっているのです。
 時に、私の辛さを誰も分かってくれない、と思うことがあります。でも、誰かが知っていてくれたら、力が出ることだってありますよね。
 そうです! イエスさまはあなたことを知っていてくださる。いや、それだけではなく、あなたが重たく感じている責任は、実は元々「わたしの荷」とあるように、イエスさまご自身の荷物で、それをあなたが共に担わせていただいていることなのです。
実は、あなたがその荷を負うことにより、イエスさまにお仕えさせていただいているのです。
 これを知って、少し軽くなりました? あなたの荷物も主の荷物なのですから。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年10月 | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

あなたのことを喜んでおられる神さま

「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」(イザヤ66:13)

 以前の「日々のみことば」でイサクとリベカ夫婦のことを取り上げたことがありました。覚えておられますか?
 彼らの出会いを記した創世記の箇所を丁寧に読むと、すでにその時点ですれ違っていたのではないかと心配になります。
リベカはベールをかぶり、相手から自分を隠していますし、イサクも相手を見ずに、自分の世界に、リベカを連れてくるだけで精一杯でした。
 聖書の教える結婚の大原則を大きく外したまま創世記24章の結婚はスタートしたのです。

 さて、それはともかくとして、私たちが神さまの前に、本当の平安をいただくためには、仮面や鎧を脱ぐ必要があります。
全てをご存じの神さまですから、気取ったり、背伸びしたり、とりつくろったりする必要はありません。
 今朝の聖句をもう一度、味わってみましょう。
 小さな子どもが何も隠さないで、お母さんに甘えるように、弱い自分をそのままで神さまの懐に憩うようにしていればいいわけです。
そうすれば、神さまは母親のように、あなたを慰めてくださるはずです。

 でも、どうでしょう。ありのままの自分でいることが難しいと感じることはありませんか?
鎧が重すぎて脱げないとか、鎧を脱いだら、そのままの姿が見えてきて恥ずかしいとか・・。
 そうお感じになったら、しばらく立ち止まって考えてみてください。神さまはあなたのことを一番よくご存じなのです。
詩編139編を静かにゆっくりと読んでみましょう。
 お母さんの胎内であなたを形づくり、全てを御覧になっておられ、かつ全部知った上で愛してくださっているのが神さまです。
 ですから、ありのままの自分で、人まねではないあなたであることを神さまは何よりも喜んでおられるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年10月 | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

自分の魂のことを神に執り成す

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」
(詩編42:6−7)

 土曜日の朝、職員の祈祷会の後、いつも土曜日と日曜日のスケジュールを報告し合い、誰がどこで何をしているのか、お互い理解した上でそれぞれの働きにつきます。
 先日、私が報告する番になり、土日のスケジュールを報告するだけなのに、心に物凄い負担を感じたことがありました。
 こんなことをお話しして何になるかと思いますが、こうした日常は、社会生活をしている多くの方たちのごく日常の生活なのではないかと思います。

 忙しい毎日を送っていると、そこには必ず落とし穴があります。それは忙しさ自体が目的となり、それが何のためか忘れてしまうということです。
またいつも心にかけてくださる神さまのことを忘れ、日常生活と神さまとが切り離されてしまうことがあります。
 まさに「忙しい」という漢字が「心を滅ぼす」と書くように、心の空っぽさをスケジュールでも埋めることによって何か満たされたように錯覚する誘惑に遭います。

 さて、今朝の聖句は、涸れた谷に鹿が水を求めてやってくるように、詩人が主を求めてやってくることを歌った詩編42編の一節です。
 自らの魂がカラカラに渇いていることを知った詩人が、神さまと自分の魂の間に割って入るように、
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」と、
自分の魂に向けて励まし寄り添う言葉をかけると共に、神さまに向けて執り成しの祈りを捧げています。

 今日、あなたの魂は渇いていませんか? 今日、どこかで、あなたの心や魂の状態を振り返り、そのことを神さまに執り成す祈りを捧げてみてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年10月 | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

居るべきところに居ること

「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。」
(サムエル下11:1)

 ダビデは紀元前10世紀頃に活躍したイスラエル王国2代目の王様でした。当時は国際情勢を大いに活用して諸外国をことごとく平定し、色々な意味で豊かさを享受した時代でした。
その繁栄の絶頂期に本当に悲しい出来事が起こりました。ダビデ王によって行われた姦淫、そして、証拠隠滅のためのウリヤ殺害の罪です。
 この聖書の箇所は悪魔の誘惑の巧妙さを教えているのと同時に、その策略に対抗するために私たちが「居るべきところに居る」ことがいかに大切なことであるかを考えさせられるのです。
 悪魔の誘惑に落ちたダビデはバト・シェバと床を共にし、彼女は子を宿しました。すぐに後悔したダビデは、この罪をもみ消そうと、前線に居た部下であるバト・シェバの夫ウリヤを呼び戻し、妻のもとに帰らせようとしました。
そのための口実として、前線の兵士の安否や戦いの状況を問うために、ウリヤを一時帰還させたわけです。
 ところが、ウリヤは王の好意に対して「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。
あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」と断ったのです。契約の箱の所に主の臨在があります。この時のダビデが居るべき場所は主が臨在される場所であり、具体的にはアンモンとの戦いの最前線でした。
 あなたは今、居るべき場所に居ますか? クリスチャンとして、その召しにふさわしい所に立っていますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年10月 | 更新情報をチェックする