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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 この度、「日々のみことばのページ」は高座教会のホームページに移行することになりました。
2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2017年08月31日

系図

「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」(マタイ1:5−6)

 ルツ記は系図をもって締めくくられています。ボアズとルツの間に生まれたオベドはエッサイを生み、そしてエッサイからイスラエル史上、王の王と呼ばれるダビデが生まれてくるのです。
この系図は、のちにルツ記を読むイスラエルの人々にとって2つの意味で大変ショッキングなものでした。
 1つは、ルツがあの偉大な王様ダビデのお祖父さんの母親であったという事実。もう1つは、ダビデを生み出す家系の中に2人の異邦人が入っていた、と言う事実です。
 1人は異邦人の地モアブの女ルツ。そしてもう1人は「サルマにはボアズが生まれ」とあるボアズです。マタイ福音書1章の系図によれば、「サルモンはラハブによってボアズを」と、母ラハブの名前が出てきます。
ラハブという女性はカナン人でした。しかも、ヨシュア記によればこのラハブは遊女であったことが分ります。モアブ人、カナン人、そして遊女の末裔として、オベド、エッサイ、そして、ダビデ王が続いていったのです。

 私たちも自分ではどうしょうもない背景、動かしがたい過去を引きずることがあるかもしれません。変えることのできないことの故に悩みも大きいかもしれません。
そして周囲の目は、そのような者に対して厳しく、冷たいものです。聖書を見ていくと、しばしば信仰共同体の中にあっても、こうした偏見で人をはかり、人を傷つけ、優劣を競わせ、劣等感で打ちのめすとい事実があります。
しかし、この系図を見る時に、私たちは別のものの見方で支配される必要のあることを教えられます。それは聖書が教える物の見方です。神さまはこのような家系を敢えて選び、私たちの救い主イエスさまを誕生されたのです。
そのことの中に、神さまの温かい愛と志とを感じるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

光の子として歩む

「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)

 4月でみどり幼稚園は、認定こども園としての歩みを始めて3年目に入りました。この地域に住む、子育て中の家族を支えていくことを神さまから使命として与えられている幼稚園の新しい歩みです。

「高座みどり幼稚園は、キリスト教の人間観にもとづき、子どもたちの全人的な成長を祈り求め、総合的な幼児教育を展開するコミュニティー幼稚園をめざします」
という「高座みどり幼稚園ミッションステートメント」に基づいてこれからも神さまと人々に仕えていく幼稚園です。幼稚園創立の時から、繰り返し大切にしてきた聖書の言葉を土台にしてまとめミッションステートメントです。
今日の御言葉もその中の一つです。子どもたちもこの言葉を暗誦しながら日々成長していきます。

 神さまは光なる御言葉を語り、光の造り主であるとともに、光そのものなるお方です。ヨハネ福音書の始まりの有名な言葉を思い出してみましょう。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。
 子どもたちに「光の子として歩みなさい」と励ましてくださる神さまは、私たちすべてを「光の子」として歩ませてくださいます。
具体的には礼拝に集うことによって、日々のディボーションによって、光なるお方、主との交わり中に生かされることが必要だと教えています。
そうしたとき初めて月が太陽の光を受けて輝くように、私たちも神の光を反映させる「光の子」として生きることが可能となるからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

もう背伸びする必要はありません

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

 以前、「気持ちが元気でないと教会に来れないのです」という声を聞いたことがあります。残念なことですが、そうした現実が私たちの高座教会にあるのでしょう。
本来愛し合い、協力し合うクリスチャンの交わりが、互いに背伸びし、競い合うようなところがあるのかもしれません。
 光なる神さまの前に全てが明らかなのに、悲しいかな、この私は、いったい誰に対して、自分の立派さや賢さを証明しようとしているのでしょうか。あるいは証明できないと落ち込んでいるのでしょうか。

 本来、教会は普段着で来れるところです。私たちは、弱さも欠けも含めて全て、光なる神さまに知られているわけですから、背伸びする必要はありません。背伸びして生きてもしょうがないのです。
全てをご存知の神さまの御前に生かされて行くのがクリスチャン生活ですから、本当は、もっともっと素直になるしかないのです。心を開いていくしかないのです。
 教会とは、主の光に照らされて、主の御業を世の中に見せるところです。「この世の価値基準に照らして立派な人がいてすごい」とか、「外見が素敵だ」とか、そういうことは本質的なことではないのです。
 もちろん、そうしたこと自体は素晴らしいことでしょうが、でも教会はそこで勝負はしません。
普通だったら、輝くことなどあり得ない私に、神さまの恵みの光が当たり、その光に照り出された神さまの愛の業を見せていただけるところが、教会であるからです。
 高座教会の交わりの中で主の御業を目の当たりにしていく。そして私たちが主の御業に用いられていく時に、世の人たちは「私たちも世の光としてキリストにあって輝けるのだ」ということを知るのです。
 このような交わりを共に祈り求めていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

「ゴリアト」との戦い

「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」
(サムエル上17:37)

 ペリシテ人ゴリアトとダビデとの戦いは有名な話です。聖書によればゴリアトの身長は約3メートルです。その鎧はおよそ57キロ。持っていた青銅の投げ槍の穂先も7キロにおよびます。
この巨大なゴリアトと戦ったのが少年ダビデでした。
 その日ダビデは父親の言いつけでパンとチーズをもって陣中見舞いに行ったのです。そこでゴリアトに怯えるイスラエルの兵士たちを目の当たりにしました。
 ところが同じ巨人の前に立たされていたダビデですが、彼はこの状況を全く違った視点で見ていき、最終的にはゴリアトに勝利したのです。

 ではダビデの勝利の秘訣はどこにあったのでしょうか?
 一言で言えば、ダビデはゴリアトその人に思いを集中するのではなく、神さまに思いを集中した点にありました。ですから戦いの前に彼は、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主」と告白しています。
ダビデはそのようなお方として神さまを体験していたのです。彼ははっきりと「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主」と答えることができました。
ゴリアトよりも強い神さまであることを心から信じていましたので、その御力に信頼して勝利することが出来たのです。

 今、あなたは「ゴリアト」のような巨大な課題と悪戦苦闘しているかもしれません。あるいは「ゴリアト」のような人生の課題に直面しているかもしれません。
あなたにとって大切なこと、それは、第1に共に戦ってくださる主がおられると覚えること。第2に、そのお方は「ゴリアト」よりも偉大なお方であると確信することです。
こうして生活の中で主を知ること、そこに「ゴリアト」への勝利が約束されているのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

弟子としての召し

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)

 聖書に「弟子」という言葉が出て来ますが、弟子とは一体どのような存在なのでしょうか。弟子とは、特別な目的を持って、イエスさまから招かれた者たちのことです。
そして、イエスさまは、その招きに応えるように願っておられる、ということです。
 ところが、英語で「弟子として育て上げる」ことを「ディスプリン」と言います。当然ですが「ディスプリン」という英語から、「弟子」すなわち「ディサイプル」と言う言葉が出来ています。

 さて、この「弟子として育て上げる」ことを意味する「ディスプリン」を辞書で引くと「仕付け」という日本語も出てきます。
実は、国語辞典で「しつけ」を引きますと「身を美しく」と書いた「躾け」と、いわゆる裁縫で「仕付け糸」という物がありますが、「仕え付ける」と書く「仕付け」という漢字の2つが出てきます。
 実は、「身が美しい」と書く「躾け」の方は、これは和製漢字だそうです。意味は、と言えば、「見栄えを美しくする」という意味で、人の目をもって、その人の振る舞いを規制する「躾け」です。
 例えば「そんなことをすると、人に笑われますよ」、「ほら、そんなところで駄々をこねていると、だれだれちゃんが見ていますよ」と行動を規制します。
自分自身を振り返りますと、私もそのように躾けられてきたように思います。その結果「人の目に自分がどう映るか」が一番の関心事となります。
 でも聖書の「弟子」という言葉から出来ている「ディスプリン」は、「人の目をもって行動を規制する生き方」ではなくて、むしろ、「神さまのご意思を求め、その神さまのご意思に生きる生き方」です。
もっと言えば、主の御心に心が集中していく。そこに焦点が絞られていくことが弟子の生き方です。私たちは、こちらを求めていきたいものです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
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