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 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
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2018年7月分からは 日々のみことばをご覧ください。
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2017年02月28日

悔い改めて信じること


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」
(マタイ6:24)

 聖書は単に「信じなさい」とは教えていません。正確な言い方をするならば「悔い改めて信じなさい」と教えています。
「だれでも、二人の主人に仕えることはできない」とイエスさまがはっきりと語っておられるからです。ところで「悔い改める」とはどういうことでしょうか?
 それは方向転換することです。心の向きを変え、古い生き方に別れを告げることです。それによってキリストに向かって成長するためです。
この点があいまいになると、イエスさまが語られた「種まきの譬え」に出てくる道端、石だらけの地、そして茨の中に蒔かれた種のように、信仰生活の実を結ぶことが難しくなります。
ちょうどそれは「悔い改めないで信じる」ことと同じです。「色々なことを信じているけれど、ちょっと心細いのでイエスさまも信じておく」というようなものです。
「やりたいことが山ほどある。でも天国に行けないと怖いから念のために洗礼は受けておきましょう」というような信じ方です。
 でも聖書が教える本物の信仰、つまり「悔い改めて信じる」とはそうした信じ方とはちがいます。それは「色々なことをしてきたけれども、これからはイエスさまを中心に生きていきます」と決心しスタートを切ることです。
イエスさまを心の王座にお迎えすること、これこそが「悔い改めて信じる」という聖書の教える本物の信仰です。
あなたの心の王座には誰が座っていますか? あなたですか? それともイエスさまですか?
あなたの主人はイエスさまです。主人であるイエスさまに喜ばれることを求めて、今日の一日すごされますようにと祈ります。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

ただ主に仕えよ


「イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイ4:10−11)

 洗礼を受けた後、イエスさまは荒野に導かれ、サタンの誘惑を受けました。そこでイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と語られました。
このイエスさまの言葉には霊的な真理があります。つまり、人はその人の拝むものによって支配される、という真理です。
例えば、方位や方角、暦をあがめ、これを信じる人は、方位や方角、暦によって心が支配されます。お金をあがめる人はお金によって支配されます。
人に好かれたい、気に入られたいと、人気をあがめるならば、周囲の人々の気持ちの変化によって、その人も浮き沈みするものです。会社をあがめるなら、最終的には会社に支配されていくでしょう。
 これに対してイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と語り、あがめることと仕えることが深く関係しているのだということを教えてくださいました。
私たちが礼拝すべき対象は神ご自身です。そして神ご自身を礼拝していく時、私たちが神に仕える者として整えられ、そのお方の恵みを反映させる者として確かな人生へと導かれていきます。
主イエスは言われます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。
あなたは、主を礼拝し、主にだけ仕える者として生かされています。そのことを心に留め、今日の1日を健やかに歩まれますように。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
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2017年02月24日

渇きを癒すイエスさま


「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

 人間は、神に創られたがゆえに、神を離れては本当の意味での満足と平安をいただくことはできないと聖書は教えます。創世記にはまさに、その事が出てきます。
 神さまとの関係の中に生かされていた時、人間は自分が自分であることに満足し、喜んでいました。自分が好きだったのです。人と比較して、優劣をつけて、鼻が高くなったり、落ち込んだりすることからも自由でした。

 ところが、神さまとの関係がズレてしまったとき、人間は自分との関係もズレてしまいました。神さまとの縦の座標軸を失った時に、彼は宙ぶらりんとなり、結局、横との関係で、自分の位置を確かめることしかできなくなりました。
そのようにして横同士の比べ合いや競争が始まりました。
 今まで神さまとの関係でたくさんの恵みをいただき、愛を十分に受けていましたから、満たされていました。
ところが、神さまとの関係が切れたことによって、自分が分からなくなり、自分が嫌になり、無意識の内に神さまの愛の「代わりとなるもの」を一生懸命求めて渇いたのです。言わば、愛の綱引き、愛の奪い合いが始まりました。
 こうした私たちの心を見られたイエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださっているのです。
 喉が渇き、そして、そして喉の渇きを癒したいと思った時に、綺麗な滝が流れていた。私たちはその滝にコップを差し出さなければ、その水を私のものとすることはできません。それが、信じるということです。
そして、その水を飲むことによって、私たちは少しずつ変えられていくのです。

 あなたは渇いていませんか? イエスさまの招きに応答し、そのお方のところで、心の渇きを癒していただこうではありませんか。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
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2017年02月23日

嵐の中での信頼


「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12:6−7)

 ある日、イエスさまと弟子たちを乗せた舟が湖の上で沈みかかり、弟子たちは慌てふためき、主は平安のうちに眠っておられた、ということがありました。
 ところで、今日の聖句を見ると、神の許しがなければ、雀1匹すら死ぬことはないと教えます。しかも私たちはそうした雀よりもはるかにまさった存在ですから・・。
ところで、アウグスチヌスは次のように語っています。「私たちはこの世の海を航海しているのです。風が起こり、誘惑の暴風が起こる。何故でしょうか。イエスが眠っておられるからです。
それはどういうことでしょうか。それは、信仰が眠っているからです。キリストが目覚めておれば、波はない。故に、『主よ、起きてください。私たちは滅んでしまいます』というべきです。
そうしたならば、彼は永遠にあなたがたと共にいまし、あなたがたは平安であります。」
 父なる神に信頼をおいておられた主は眠り、眠った信仰の弟子たちは慌てふためく。眠るイエスさまと慌てふためく弟子たちの姿は対照的です。
信仰が目覚めているか、眠っているかは、生活に突如として突風が襲ってきたときに明らかになるのではないでしょうか。
「信仰」のことをギリシャ語で「ピスティス」と言いますが、「神さまの真実」にも、同じ「ピスティス」という言葉を聖書は使います。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と御声をかけてくださるお方は、真実な御方です。
1羽の雀を御心にとめ、あなたの髪の毛1本1本を知っておられる神さまの真実に信頼して、今日一日を過ごしていきましょうね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
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2017年02月22日

御言葉の力を経験する


「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
(イザヤ55:11)

 ある日、イエスさまはペトロに対して、沖に舟を出すように頼まれました。湖の上から舟に乗って、陸地に集まった群衆に対して御言葉を語るためでした。
 舟に居たペトロは、イエスさまの御語りになる横で、その教えを聞いていました。もちろん、群衆たちも御言葉を聞いていました。
でも、イエスさまはペトロに対して、もう1つのことを期待していたのです。それは、御言葉を聞くだけではなくて、御言葉を経験して欲しかったのです。
そこでイエスさまは、漁師のペトロに分かり易い表現で、「沖へ漕ぎ出して、漁をしなさい」とお命じになったのです。ペトロは、「お言葉ですから、網を下ろして見ましょう」と言いました。
実は、前の晩、夜通し漁をしたのに収獲はゼロだったのです。素人のイエスさまが漁について語ってもらっちゃ困ると、内心思いましたが、何しろイエスさまの願いです。断るわけにはいきません。
でも、ペトロには漁師としてのプライドがありましたので、「漁をするわけではありませんが、あなたが言われるのでしたら、網を下ろすだけは致しましょう」と言って、網を下ろすことにしたのです。

 ところが、どうでしょう。網いっぱいに魚が溢れたのです。その結果、ペトロはイエスさまの御言葉の力を経験したのです。
 イエスさまはただ単に、御言葉の知識を増やすことを私たちに求めておられるのではありません。むしろ御言葉の力を体験し、御言葉の約束に生きることを願っておられるのです。
「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
これがペトロの経験した御言葉の力です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
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