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2017年03月24日

御言葉を自分のこととして聞く

「『また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」
(マルコ4:8−9)

 ある時イエスさまは《4つの種のたとえ>を御語りになりました。蒔かれる御言葉の種はみな同じです。1つ1つの種には命が宿っています。では、どこにちがいがあるのでしょう?それを受けとめる《私の心の姿勢》という「土壌」のちがいがありました。
 道端、石だらけの地、茨の中。そこにいくら種が蒔かれても実を結ぶまでに成長しません。言い換えれば、御言葉を自分のこととして聞く姿勢がない時、聖書の知識は増えますが、あなたの生活の中には何の変化も起こらないでしょう。
 では、どうしたらよいでしょうか? 自分に語られたこととして聞くことです。「この御言葉、亭主にぴったりだわ」と思って聞くことはないでしょうか? 「息子に聞かせてやりたい」と感じることはないでしょうか?
亭主や息子に聞かせる前に、まずはあなた自身に語られた御言葉として聞くことが大切です。

 聖書に登場する信仰の先輩たちの誰もが、常に自分のこととして御言葉を聞く習慣を持っていました。それが基本です。その基本に立ち返る必要があります。
 そのようにして御言葉を聞く時、時に罪が示されることがあります。また十字架の意味がよく分かり、赦しの実感が与えられる経験をするでしょう。熱心にきよめを求め、神さまの愛に応え、御言葉に従いたいという思いが起こされていくでしょう。
あるいは御言葉が示されても、従うことの出来ない自分と直面し、そのことのために悲しみ、悔い改めに導かれていくこともあるかもしれません。
 こうしたことが全て、御言葉をあなた自身にあてはめて聞く時に起こることなのです。ぜひ、試してみてくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年03月 | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

エリコ再建に伴う出来事

「彼の治世に、ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉のとおり、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失った。」
(列王記上16:34)

 エリコとは、イスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に征服した町でした。それも1日1回、町の周囲を6日間1周し、7日目には7周回りました。
そして祭司たちが角笛を吹いたのを合図に人々が大声をあげた結果、城壁が崩れ落ち、エリコが陥落したのです。つまりエリコ攻略は、一方的な神さまの御業によりました。
それを記念するためにヨシュアを通して語られた言葉が、今日の聖句の「かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉」です(ヨシュア6:26参照)。
それ以後、民は決してエリコを再建しようとはしませんでした。主を畏れたからです。しかし、アハブの時代のヒエルが一線を越え、その結果、御言葉通り、彼は2人の息子を失ったのです。
 私は、この最後に出てくるエリコ再建の出来事が、主の御言葉に対するいい加減さ、それは取りも直さず、主に対する畏れの欠如を表わしているように思うのです。
 御言葉に対する姿勢が緩む時、実は信仰も緩んでいることを暗に伝えています。

 聖書の世界において、言葉は人格の反映です。まことに人は、その人にふさわしい言葉を吐くのです。ですから、言葉はその方のイメージでもあり、私たちは大切な人の言葉、メールの一文を心に反復しながら、温め思いめぐらすわけですね。
つまり、その人を愛するということと、その方の言葉を愛することは切り離せない関係にあるからです。主を愛することは御言葉を愛することによってはかられます。
 私たちも御言葉を味わう中で、御言葉御自身であるキリストの神さまを愛する者へと変えられていきたいと願います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年03月 | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

誰の目の前に富むか?

「主の目に悪とされることを行って」(列王記上15:34)

 列王記には、北イスラエル王国に次々と登場する歴代の王さまの働きが記録されています。初代の王さまはヤロブアム、その次はナダブ、そしてバシャ、エラ、ジムリ、オムリと続きます。エラは2年、ジムリにいたってはわずか7日間の在位でした。
頻繁に入れ替わる王さまたちの治世を通しての特徴は「主の目に悪とされることを行った」ということでした。例えばオムリは12年。そして、その後出てくる北イスラエル最悪の王と言われるアハブに至っては、治世は22年であったことが分かります。
そして、その長期安定政権の間、北イスラエルは政治的、経済的な意味で発展や成長を遂げたように見えます。ところが、それに反して、列王記は「彼以前のだれよりも悪い事を行った」とその評価が下されているのです。
 こうしたことを知り、私たちは誰の目の前に富む者であることを願うか、ということを改めて問われるように思います。
つまり、「世間の物差し」と別の物差しを持てば、人生を楽しむゆとりもできますし、人間関係においても、役に立つ人だけと付き合うのではなく一緒にいて楽しくくつろげる相手とかかわるようになりますので、そこで良い仲間もできるわけです。
そのように、聖書に親しむにつれ、実は、「世間の物差し」が人生のすべてではないことを教えられるのです。逆に、いわゆる「世間の物差し」しか持っていないことで、様々な意味で危機を経験することがあることも知らされます。
むしろ家族を大切にするという物差し、クリスチャンであれば、神さまとの関係を大事にするという聖書の物差し、そうした物差しが、私たちの人生を本当の意味で豊かにすることを知らされますし、その恵みを私たちも経験していることだと思うのです。
そう思いませんか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年03月 | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

主の御前に

「神に従う人は7度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。」
(箴言24:16)

 ダビデの生涯を振り返れば、傲慢になって人口調査の罪を犯し、多くの国民を犠牲にしたことがありました。バテシェバとの姦淫の罪を犯し、霊的に堕落した経験もしました。たくさんの失敗、たくさんの恥ずかしいことがありました。
そうしたダビデも、妻にとっては夫であり、子どもたちにとっては親であり、イスラエルの民からすれば、国のリーダーでしたから、当然、そうした罪のとばっちりを家族も国民も経験したことです。
こうしたダビデの生涯を、聖書から読む時に、程度の差はあったにしても、そうした1つひとつのことは、私たちが日常経験する現実でもあるのではないかと思いました。

 さて、そのような中で、ダビデの生涯には、私たちの模範とすべき良い点もあります。それは、何かあるごとに主の御前に戻り、主の取り扱いを受けつつ生涯を全うしたということです。聖書は、最後の最後に人は皆、主の御前に立たされます。
ダビデは、主なる神さまと気まずい関係で天国の門口に立つのではなく、最後には顔を合わせるわけですから、そのお方とのわだかまりのない関係の中に、日々歩むことを努めていました。
 ダビデは、人生の締めくくりに際して、息子のソロモンに対し「あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が絶たれることはない」と語り「主の御前に立つ私」という信仰の姿勢を引き継ごうとしているのです。
 私たちの人生の締めくくりに際し、このダビデのように、自らの最後に全てを総決算できる言葉を持つ人は何と幸いかと思います。この後、ソロモンは、箴言を記します。その1節が今日の聖句です。
これは父の信仰をまさに継承したソロモンの証しのように聞こえてきます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年03月 | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

シャローム

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
(ヨハネ20:19)

 復活されたイエスさまが、最初に弟子たちに語り掛けた言葉が「平和があるように(シャローム)」という言葉でした。復活されたイエスさまは、怯え、失望のどん底にあった弟子たちをご覧になりました。そして、彼らに一番ふさわしい恵みの言葉を贈られました。
それが「シャローム、あなたがたに、平和があるように」という言葉です。この時、弟子たちのことを誰よりも心配し、心にかけ、そして彼らの必要をご存じだったのは誰でしょう?
そうです。イエスさまですね。そして、イエスさまは、今日のあなたにも、この言葉をかけておられます。本当に強い願いと意志をもって、あなたに自分のものにして欲しいと願っておられるプレゼントであることを覚えていただきたいと思います。
 ご存じのように、イエスさまは、私たちの罪の為に十字架を負ってくださいました。それによって本当のシャロームの道を拓いてくださったのです。
そして、「恐れなくてよい!将来の不安におびえなくてもよい!人の目も周囲の人の誤解も、人間同士の悲しい行き違いも、心配しなくてよい。病気も、事業の失敗も。あなたの人生を決して無意味なものにしない!」という約束の言葉でもあります。
ぜひ、この恵みを心に刻み、今日の一日、シャロームの主イエスさまと共に生き、そのお方に守られていることを覚えて過ごしてみてください。

 シャローム!いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年03月 | 更新情報をチェックする