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2017年05月29日

よい記憶はあなたを生かす

「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす」(詩編42:5)

 詩編42編を読むと、魂が渇ききっていることを知った詩人が、真剣に自らの魂のために、執り成しの祈りを捧げています。
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」
 そうした中で、この時に詩人が特別にしていることがあるのです。それは「思い起こす」ということです。

 ある方がおっしゃっていました。「良い記憶は今の私を生かす」と。
 「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。」
 彼は今までの歩みを振り返り、本当に励まされた出来事、恵みを受けた経験、そして何よりもそのとき、そこに共におられた神さまのことを思い起こしているのですね。
ところが、残念なことに、心の目が開かれていないために、どの場面においても神さまが共におられることに気づかないでいることがあります。

 こんなことがありました。復活の主が「エルサレムに留まりなさい」と言われる前に、「まずガリラヤに行きなさい」と命じられました。
 ガリラヤ、そこはキリストと弟子たちの喜びに満ちた思い出の場所だったかもしれませんね。
そこに行くことによって、自分たちを招かれた時の主の真剣なまなざし、宣教から帰って来た自分たちの肩を抱いて迎えてくださったイエスさまの笑顔、
「ご苦労様」とねぎらってくださった優しさ、そうした記憶を思い起こすことができました。

 ところで、あなたの人生のガリラヤはどこにありますか? イエスさまの優しさに触れたのは、いつ、どこだったでしょう?
そうしたことを思い起こし、恵みを味わうことは、あなたの魂に力を与えることでしょう。

 今日、ちょっと時間を取って、神さまの恵みを数えてみませんか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年05月 | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

何も起こらない信仰生活

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
(ヨハネ14:23−24)

 「キリストを愛そうとはせず、自分のみを愛する者、あるいは、喜んでキリストを受け入れようとはするけれども、決して仕えようとはせず、服従しようともしない者は、キリストの言葉を決して守ろうとはしない。
それゆえ、そのような人には、何も起こりはしないであろう。」
 これはドイツの牧師、ボンヘッファーの言葉です。

 洗礼を受けたはずなのに生き生きとした信仰生活を送れない理由がここに述べられていますね。一言で言えば、イエスさまを主としない生活です。その結果、御言葉を読むのですが守るところまでいきません。
 十字架の前夜、イエスさまは弟子たちに対して最後の説教を語られました。今日の御言葉はその一節です。
 イエスさまを愛するとは、そのお方の言葉を守ることなのだ、と教えられました。そして、御言葉を守る恵みとして、父なる神さまの愛を深く体験し、その臨在の内に生きることができるというのです。

 ある研修会で、学生時代の恩師がマタイ福音書の宣教命令の箇所を読み、しみじみと話されたことを思い出します。
「今まで一生懸命に聖書を教えてきた。でもイエスさまの命令どおり、御言葉を守るように教えて来ただろうか、御言葉を生きるように説いてきただろうか」と。先生の話を聴き深く反省させられた経験を思い出します。

 ところで、あなたの信仰生活はいかがですか? 「何もおこらない信仰生活」となっていませんか?
 今日、立ちどまってあなたとイエスさまとの関係を顧みる時を持たれたらいかがでしょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年05月 | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

最初の一歩

「幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」
(2テモテ3:15)

 求道者の方から「聖書はどこから読み始めたらよいでしょうか?」と訊かれることがあります。私はマルコ福音書をお勧めします。まずはイエスさまのご生涯を大づかみにしていただきたいからです。
その後、ルカ福音書、マタイ福音書、ヨハネ福音書に進みます。そのようにして新約聖書を一通り読んで、創世記から始めて旧約聖書を読み始めてください。

 ところで、これも求道者の方からよく聞く言葉です。
「聖書を読んでも分からない。」
 そんな時、私は「キリスト教のシンボルは十字架ですね。礼拝堂に入ると正面に十字架があります。なぜイエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのか? その問いを持って聖書を読んでください」とお勧めするのです。
 そうしていると、聖霊の導きの中、聖書が教える罪に気付かされていきます。その結果、十字架の謎が解け、なぜキリストが十字架にかからなければならなかったかの答えが分かってくるのです。
 そのようにして悔い改めと赦しへと導かれ、信仰のしるしとして洗礼を受けるのです。
 その結果、聖霊によりイエスさまの命が私たちに注がれ、神の愛を深く知らされていきます。神さまに愛されていることを知るなかで、自分を大事にし、他の人を大切にしたいと思う私に変えられていくのです。

 クリスチャンになる前は、人の目が全てで、人が見ていなければ何でもできるという倫理観がありました。でも、聖書を読み、聖霊に導かれる中で、心の内側に羅針盤のようなものが出来上がっていきます。
 このようにして信仰が少しずつ成長していくのです。その最初の一歩が祈りつつ聖書を読むことなのです。

 ところで最近、あなたの心に迫った聖書の言葉は何ですか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年05月 | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

神さまの力強い御手の下にへりくだる

「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。・・信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」
(1ペトロ5:6、9)

 歴史博物館に行くと色々な鎧や兜が展示してありますね。そうした武具をよく観察すると、武具の大切な目的について教えられます。それは身を守ることだけではなく、敵を威圧する目的もあったということです。
 そのようにしてさら観察すると何か不思議で、こっけいに感じます。それは本当にこんなもので敵を脅せるのだろうかと思うからです。

 さて日頃、私たちも同じようなことをしていないでしょうか?
 人に対して「凄いだろう!」と誇れるものも、冷静になってみたら自分だけの誇りに過ぎないものであったりします。ましてや唯一の敵であるサタンとの戦いにおいては何の役にも立たないものなのです。

 ではサタンが恐れるものとは何でしょう?
 それは神さまにより頼む、あなたの謙遜さです。サタンは元々高慢な者なので、決して神さまの前にへりくだることなどできません。その結果、神さまから恵みを受けることもできないのです。
 逆に、神さま抜きのあなた自身の頑張りや賢さは、サタンからすれば大したことはありません。その賢さにおいてサタンは、神さまには負けますが、あなたよりはるかに優れた者だからです。

 では、そのサタンに負けないためにはどうしたらよいのでしょうか?
 そうです。ほんとうにへりくだり、神さまの御力により頼むことです。へりくだって神さまの恵みを求める者に、サタンは何の手出しもできないからです。
 もし弱さや足りなさを感じたら、祈りを通して神さまに訴えましょう。そのようにして神さまに近づきましょう。神さまは御自身のもとに身を寄せてくるあなたを、恵みの鎧と兜でしっかりと守ってくださるからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年05月 | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

神の御心に従って

「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(1コリント12:18)

 コリント教会は、ギリシャの大教会だったそうです。教会員の数はとても多く、それゆえに賜物に恵まれていた教会でした。
 ところが残念なことに教会に分裂騒ぎがあり、教会員の賜物が十分に生かされていない状態がありました。使徒パウロはこのコリント教会に宛てて、どのように神からいただいた賜物を管理し、用いていくかについて具体的な勧めをしています。
 そうした大切な教えの1つが今日の御言葉です。「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」

 ところで、あなたは人と比較して優越感を抱いたり、劣等感を持ったりしたことはありませんか? あるいは、他人の賜物をうらやましく思ったりしたことはないですか?
 私にはそうした経験が山ほどあります。でも、そんな時に今日の御言葉と出会いました。
 実は新改訳聖書では次のように訳されています。「しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」
 「神は、御自分の望みのままに」という箇所を「神はみこころに従って」と訳していました。
 この2つの訳を比較し考えるならば、私たちに与えられた賜物や個性は、実は、神さまの願いに従って与えられたもの。それは神さまの御心なのだ、ということなのです。
 とするならば、私たちがすべきことは何でしょうか?

 もしあなたが「目」ならば、「耳」であるお隣さんを羨んで「耳」になろうと努力することではなく、「目」であることを受けとめ、神さまの恵みの中で「目」としての賜物を磨き、それをもって神さまと人々のために生かしていくことです。
 あなたが賜物を発見し、それを磨くならば、必ずそれが神さまと人のためになっていきます。何故でしょう?
 それが神さまの御心だからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年05月 | 更新情報をチェックする