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2016年12月08日

無理やりに十字架を担がされて


「そこへアレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
(マルコ15:21)

 群がる狼に向かって投げ渡された小羊そのままのイエスさま。神からも人からも捨てられてしまったかのように見えるイエスのおそばに付き添う者は一人もいませんでした。
 イエスさまを十字架にかけようとする一連の出来事、また、これまでイエスさまの存在を喜んでいた群衆の変わり身に早さに、弟子たちは恐れをなして姿を隠してしまっていたのです。
 誰の目にも、このままでは、イエスさまが自分の十字架を負ってゴルゴダの丘にまで上ることは不可能だろう、と分かるのですが、手を貸す者はありません。そこに、たまたま通りかかったのが「キレネ人シモン」でした。
人々は、このシモンという男にイエスの十字架を無理やりに背負わせて、ゴルゴタの丘までお供をさせたのです。
 この時のシモンは、自分から進んで《この役》を買って出たのではありません。全く突然、強いられるようにして主の十字架を負わせられました。
 シモンは、自分の前を、今は身軽になられて、ゆっくり、ゆっくりゴルゴタの丘に向かって歩まれるイエスという人の背中目がけて、「何で俺がお前の十字架を担がなきゃいけないんだ!」と、大きな声で怒鳴りたい気持ちだったのではないかと想像します。

 ところで、このシモンにはアレクサンドロとルフォスという息子がいました。実はこの2人、マルコ福音書が書かれた頃の教会で、誰もがその名を知るほどの主の働き人であったと言われています。
 十字架を無理やりに担がされたシモンが、クリスチャンとなり、その後、息子たちも主を信じる者として導かれていったことの証しだと言われています。

 主のなさる御業は本当に時に適って美しいと思いませんか!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年12月 | 更新情報をチェックする

2016年12月07日

従順なる人


「主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」 (マタイ2:13−15)

 ヨセフは、夜の明けるのも待たずに、眠っている家族を起こし、寝ぼけているロバに荷物を積んでヘブロンを通って南へ南へとエジプトを目指して旅立っていきました。
エジプトまでとなると、距離的には故郷ナザレからベツレヘムまでの2倍以上、比較にならないほど大変な旅だったと思います。しかし、彼はすぐさま立ち上がって、エジプトへ向かいました。
また、ヘロデが死んだ後、やはり天使が現れて、今度は、「起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」というメッセージが語られました。
ここでも彼は立ってイスラエルに向かいました。「ナザレに行け」との天使の言葉にも、ヨセフは従順に従い、ナザレに行って、そこに住みつくことになりました。
 このように、主の天使が夢に現れ、ヨセフになすべきことを告げると、彼は、その命令に従順に応答し、マリアの夫として、そして何よりもイエス様の父親としての責任を果たして行ったことを見ることができるのです。
聖書の中にヨセフが登場するのはごく僅かです。多分、若くして召されていったのだと思います。ヨセフは、自分に託された本当に困難な役割を引き受けて行きました。
自分自身を生きるという彼自身の命の道を、不平も言わずに、黙々と引き受けていったのです。そのような姿に私は感銘を受けるのです。
さらに息子イエス様に対して、聖書で決められている通りに割礼を受けさせ、神殿に参り、親としての責任を果たしていきます。
こうした父親の姿は、何よりも、息子イエス様に大きな影響を与えていったことだと思うのです。イエス様が神様をお示しになる時、地上の「お父さん」という存在をもって「神様」を紹介されました。
それは、取りも直さず、地上の何者よりも父親ヨセフが、天の父なる神の義と愛を体現する者として、幼子イエス様、少年イエス様の目に映っていたからだろうと思うのです。
ヨセフは、当時の社会の中で出世した人物でも、英雄的存在でもありません。ごく普通の大工さん、私たちと同じような人でした。しかしヨセフは、導いて下さる神様に、その時、その時、従順に従って歩んでいったのです。
その結果、神様から喜ばれる者として生涯を全うすることができました。私たちも主の導きに従順に従って歩んでいきたいと願います。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年12月 | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

かけがえのない時を過ごす


「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」 (マタイ25:1−3)

 以前、『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本を読みました。『境界線―バウンダリーズ』で話題になったヘンリー・クラウドという人が書いた本です。ひと言で言えば、子離れ・親離れの本です。
子どもが生まれてきた時に、食事から始まり、排せつ、そして服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも子どもが成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、そして服も自分で着たり脱いだりするようになります。
私たちは、子どもが生まれた時には、一から十まで全部を親がやっていたように思っているのですが、実はそれは錯覚であるとクラウドは言うのです。ミルクを作り、子どもの口元まで持っていきます。しかし、そのミルクを飲むかどうかは、子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやることのできない領域です。
私たち1人ひとりの人間は、親子であっても夫婦であっても、とって代わることのできない大切な存在なのだということなのです。
 今日の箇所は「十人のおとめ」のたとえの冒頭です。
花婿が到着したとき、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、愚かなおとめたちは油を買いに行く間に、戸が閉められてしまったというたとえですが、イエスさまは、この10人のおとめに与えられた責任・役割が、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認しています。
その一方で、この役割は他の人が代わり得ない重要なものなのだということを教えています。
私たちは会社の中で、また家庭の中で、あるいは地域社会の中で、それぞれ他の人が代わることのできない役割をもっているのではないでしょうか?
そして、その務めに精一杯生きることが、私たちには求められているのです。しかも、そうした務めに生きるということは、ある意味で、婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りのかけがえのない時です。実は、私たちはそうした時を、日々生きているのだと思うのです。
イエスさまは、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと教えています。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年12月 | 更新情報をチェックする

2016年12月05日

神に向かって、思いを吐き出す


「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」
(詩編55:2−3)

 私たちの日常を顧みる時に、不安や心配で心がふさがれるようなことはありませんか? 目や耳から飛び込むニュース、事件、事故なども、心に疲れを覚えている人が多い現実を知らされます。

 詩編55編の記者も悩みと不安の中にいました。そんな彼は何をしたと思いますか?そうです。祈ったのです。悩みと不安の中にある自分の思いを、神さまにストレートに祈ったのです。この詩人の正直な祈りに驚かされます。
「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」

 いかがでしょうか? まっすぐに心の中を打ち明けていますよね。神さまは、あなたにもそうして欲しいと願っておられるのではないでしょうか?!
〈こんな祈りをしたら恥ずかしい〉とか〈こんな祈りはクリスチャンらしくない〉と思わないでください。背伸びして祈る必要などありません。むしろありのままのあなたの思いを、神さまに向けて正直に、ストレートに訴えるのです。
神さまは、あなたのことをいつも心にかけ、大事に思っておられます。そして、あなたの本心、正直な思いを聴かせて欲しいと願っておられるのです。
さあ、今日のどこかで、あなたの心の中にため込んだ思いを、正直に神さまに向かって吐き出してみてはいかがでしょうか。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年12月 | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

不安からの解放


「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」
(創世記40:23)

 カンバーランド長老教会の『信仰告白』は、神様から離れた人間が共通して経験することが「不安・不安感」である、と告白しています。
この時のヨセフは「忘れ去られる不安」との戦いの中に置かれていました。では、こうした不安から、どのようにしたら解放されるのでしょうか。
それは、「神に知られている」という現実を知ること以外に道はない、と聖書は言います。
私は、この《神に知られている》という事実、あるいは、「実感」と言っていいと思いますが、それがヨセフを支えていた、と思うのです。
人々から忘れ去られ、監獄の中にあっても、自分に安否を問う人などいません。みんな自分のことで精一杯です。また、こちらから何かしてあげたとしても、感謝されるどころか、結局、給仕役の長はヨセフを忘れてしまったのです。
しかし、給仕役の長が彼を忘れるようなことがあったとしても、神は決してお忘れにならないのです。
前に、『たいせつなきみ』というタイトルの絵本が話題となりましたが、その同じ著者が、『ワンダフル』という題名の本を書いて、翻訳されました。
その中の一文に「もし神様がお財布を持っていたなら、きっと中に、きみの写真が入っている」とあるそうです。アメリカの方は、よくお財布に大切な人の写真を入れています。
「もし神様がお財布を持っていたなら、きっと中に、きみの写真が入っている」。
ヨセフはそのことを知っていました。実感していたのです。
この神様に覚えられている恵み、神様に愛されている恵みに支えられていたのです。人が自分のことを心配してくれるような状況になくても、神様がこの私を心配してくださっています。
人が自分を全く重んじないような中にあっても、神様は、私を重んじておられることを知っていましたから、彼は、人に心配されたり、人に重んじてもらったりすることから、次第に自由にされていきました。
むしろ、そうした他者に対する無関心の空気が張り詰める監獄の中にあっても隣人に関心を持つ生き方、他者に対する心を失わずにいられたわけのです。
このような意味で、ヨセフは神様に愛されている恵み、神様に重んじていただいている恵み、神様に知られている恵みを心の中にしっかりと受けとめる、《恵みの管理者》であったのです。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年12月 | 更新情報をチェックする