2012年05月18日
方向転換
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカ15:7)
ある時、ファリサイ派の人たちは徴税人や罪人たちがイエスさまのところにやって来て食卓を共に囲んで喜んでいる姿を見て、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と批難しました。
つまり彼らの心の中には、どこかで自分は奴らとは違うのだ、自分はOKだけど、彼らはダメな人間なのだ、というような思いがあったのではないかと思います。
これに対してイエスさまは、「言っておくが、このように、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と語られたのです。
これはイエスさま一流の皮肉ですね。自分は正しいと自分で思っているに過ぎない。そのように、別に神さまを信じなくてもやっていけると思っている人には、悔い改めはおろか、神さまが居ても居なくても関係ない、ということになります。
でも本当に自分の弱さや自分の無価値さに打ちのめされているような、それこそ、自分は他の人と違って迷い出てしまったのではないかと思えるような人が、その弱さのゆえに、その無力さのゆえに、悔い改めて神さまを発見することが出来たら、
それは本当の意味で神さまが一番喜ばれることなのだと、イエスさまは言っておられるのです。
ファリサイ派の人や律法学者は、徴税人を見、そしてその仲間の人たちを「罪人」と呼んでは、軽蔑していたのです。そして、そうした人たちと喜んで食事をしていたイエスさまさえも馬鹿にしていました。
でも、どうでしょう。今日の聖句を通してイエスさまは全ての人に「悔い改めなさい」というメッセージを伝えています。
聖書の「悔い改め」とは「方向転換する」という意味です。
今日のあなたの歩みは、神の方向を向いていますか?一度、確認してみてくださいね。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:00| 2012年05月
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2012年05月17日
自分を受け入れること
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
(ルカ2:49)
想像ですが、婚約中にマリアが妊娠したことはナザレの人々の多くが知っていたと思われます。小さな村ではスキャンダルのような出来事でした。
そうした背景を持って誕生し、それを背負って成長されたとすれば、イエスさまは、いつ、どのようにして、ヨセフが実の父ではないことを知ったのだろうか、と思います。
マリアとヨセフが出生の秘密を説明したかもしれませんが、誰かが不用意に話してしまった可能性だって否定できません。仮にそうだとしたら、少年イエスさまの心には少なからず動揺があったように思います。
今日の聖句は、そうした12歳のイエスさまの口から出た言葉です。そこには「実の父親は誰なのか?」という深刻な問いがあったと思われます。
ところで、誰もが親から良いものも悪いものも受けて生きています。
イエスさまと同様に生みの親と育ての親が違う人であったり、実の親であってもその関係の中で愛されず、認められなかった経験があったり、場合によっては虐待されたりして、未だに痛みを引きずって生きているのが現実の私たちだと思います。
実は、そうした私たちに、今日のイエスさまの言葉は、解放の道筋を示しているように思うのです。
結論から言えば「私は誰なのか?」という問いを確認する大きなポイントは、親から自立することです。余談ですがこの後イエスさまはナザレで両親にお仕えになりました。
そうできないと「あんな親に育てられたから、こうなってしまった」という思いから逃れられず、幾つになっても親との関係で拒絶や承認を繰り返し経験し続けるからです。
神殿で、肉親を超える存在である神の御前に立った時に、イエスさまは本当の自分を発見されました。そのことこそが、本当のあなたを発見し、本当のあなたへと解放される出発点となります。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:00| 2012年05月
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2012年05月16日
神の前に豊かな者
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
(ルカ12:21)
イエスさまの譬え話です。
あるお金持ちの人が、大きな倉を建て、財産や穀物を何年分もため込んで「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分の魂に向かって言いました。
ところで、食べ物、着る物、健康を自分の知恵や力で自由にできることなど、本来は出来ないことです。それは全て神さまからの賜物だからです。
金持ちはそのことに気づいていません。でも、こうした金持ちの考え方こそ、世間一般の物の見方を代表したものと言えます。
さて、イエスさまはこの譬えを通して3つ大切な真理を伝えようとしています。
第1に、金銭は人に真の安らぎを与えるものではないこと。
第2に、この人の愚かさは自己中心にあること。
その証拠に「『わたしの倉』を建て、『わたしの穀物や財産』をその中にしまい込み、『わたしの魂』に向かって安心せよと言おう」と言って、金持ちは「わたしの」という言葉を繰り返しています。
「わたしが、わたしが」という神さま抜きの姿勢です。そこに本当の幸せはないのです。物を持てば持ったで、今度、失うことを心配するようになるからです。
第3に、彼が成功を収めた時、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と対決を迫るのです。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とイエスさまは言われましたが、実は、私の人生に、神さまとの縦の関係、人生の縦軸を持つことが、「神の前に富む」ということの意味なのです。
イエスさまは、そのことこそが本当の幸せ、本当の豊かさの秘訣なのだ、と私たち教えてくださっているのです。
今日も縦軸をピンと伸ばして健やかに生きていきましょう。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:00| 2012年05月
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2012年05月15日
共におられるイエスさま
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、・・ひそかに縁を切ろうと決心した。
・・主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
そして、その子をイエスと名付けた。」
(マタイ1:18−25)
よくよく考えてみれば、神の子が人となり、人として生きられたということは、本当に不思議なことですね。
イエスさまの誕生、大工としての生活、最後には十字架の上での死と復活というご生涯は、誰も思いつかないような出来事の連続だったと思います。
実は、神の子であるイエスさまが人類の歴史の中に介入された不思議さと同じくらいに不思議なことが起こっているのです。それは、そのイエスさまが、あなた個人の人生にも深く介入してくださっているという現実です。
聖書はイエスさまが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼ばれるお方だと預言しています。この事実は、今日のあなたにとってどんな意味があるでしょう?
イエスさまが、今日もあなたの職場、あなたの学校、そしてあなたの家庭に、あなたと一緒にいてくださる、という約束なのです。あなたは、今、イエスさまが一緒にいて下さること、感じていますか?
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:00| 2012年05月
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2012年05月14日
イエスさまから学ぶ
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
・・わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:14、16−18)
今日の聖句は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という「受肉」の神秘を語っています。
これは、クリスチャンである者にとってはごく当たり前のことでしょうが、よくよく考えてみますと、物凄いことではないでしょうか?!
ここに出てくる「宿る」という言葉は「テントを張る」とか「仮住まいする」という意味の言葉です。旧約聖書を読むと、神さまは会見の幕屋に臨在し、そして神殿に臨在されたことが記されていますね。
ヨハネ黙示録には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」(21:3)と書かれています。
ですから、いつか私たちも、モーセと同じように、いやイエスさまの弟子たちのように、顔と顔とを合わせるようにして神さまと交わる機会が約束されています。
父なる神さまのふところにいて親しく交わっておられた独り子イエスさまは、私たちに神さまのことを知らせるために来られたのです。イエスさまの人格と働き、そして教えを通し、神さまが一体どういうお方なのかを私たちに示されたのです。
ある人が「受肉とは靴づくりの職人が自ら靴になってしまう以上の出来事なんだ」と語っていましたが、今日、時間を取って「受肉の神秘」を味わい、神さまに感謝と賛美を捧げましょう!
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 07:01| 2012年05月
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