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2017年08月18日

神の御心を行う人

「そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった。」(ルカ8:20−21)

 ある日、イエスさまのところに、イエスさまの家族がやってきました。ある人が気を利かせ「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」とイエスさまに知らせます。するとイエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになったのです。
 聖書には、マリアがイエスさまから「お母さん」と呼ばれた記録が一度もないのです。自分のお腹を痛めて産んだ息子から「お母さん」と呼ばれないことに、マリアは心を痛めたのではないかと思います。マリアは、「御子の母」としての特別な使命があり他の人には分からない辛さや大変さがあったことでしょう。

 ところで、ここでイエスさまが御語りくださったことの意味は、「神の言葉を聞いて行うことは、イエスさまのお母さん、イエスさまの兄弟として召されることなのだ」ということでしょう。
 今日の聖句の少し前の箇所には「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」(7:30)と洗礼者ヨハネからの洗礼を拒んだことが書かれています。
イエスさまを信じて受洗するということは、まさに「神の言葉を聞いて行うこと」であり、神さまの御心、神さまの願っておられることです。今、週報には9月から始まる洗礼入会準備会のお知らせが掲載されています。 
あなたの家族や友人で、礼拝に出席しているが、まだ洗礼を受けていない方がおられますか? ぜひ祈って、声をかけ、そっと背中を押していただけたらと思います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

感謝と喜びをもって

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。』」
(創世記2:16)

 創世記2章は、エデンの園におけるアダムとエバの暮らしぶりを伝えています。
 一日の労働を終えた彼らは、園の中央にやって来て祈ったことでしょう。
「神さま、今日の1日をありがとうございます。豊かな恵みを感謝します。これだけ良くしてくださるあなたに応えて生きていきたいです!」
 そのように祈った後、目を上げるとそこに善悪の知識の木が立っています。その時、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」との戒めを思い出したことでしょう。
「ああ、神さま、あなたを愛します。あなたの願いを私たちの願いとしたいのです。ですから、あなたの戒めを守ります」と言って、その木の実を食べずに立ち去るのです。
 彼らは主の戒めの言葉を守ることにより、神への感謝と愛を表明することが出来たのです。またそれによって神との信頼関係がより深いものへと導かれていったのです。
ですから、この木が植わっていた場所は、まさに彼らにとっては礼拝の場、神さまとの交わりの場だったのです。

 ところで、〈なんで神さまは「物騒な木」を園の中央にお植えになったのか?! 危険じゃないか・・〉と、疑問を持たれる人もいます。しかし、真実は、その逆なのです。
この「善悪の知識の木」は「危険な木」ではなく、むしろ神さまから私たちへの豊かな恵みを覚え、感謝をささげる「祝福の木」だったのです。

 神さまは気前よいお方です。私たち1人ひとりを覚えて、豊かな恵みをもって祝してくださる神さまに、感謝と喜びをもって仕えていきましょう!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

神の家族であることの恵み

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(エフェソ2:19)

 学生時代、自宅近くの教会に通っていました。その教会にHさんという80歳を過ぎたおばあちゃまがおられました。Hさんは行商をしてお孫さんを育てました。
ところが、手塩に掛けて育てたお孫さんにお嫁さんがやって来て同居を始めた途端に、そのお孫さんが、自分に冷たくなっていく。自分の家なのに、自分の家でないような寂しさを覚える。
いつもHさんは教会に来ると泣きながら証しをし、私たちは皆でHさんのお話を聞き、そして祈りました。
 その時、私は〈クリスチャンでなければ、祖母ほど歳の離れたHさんと知り合いになるだろうか〉と感じたのです。Hさんも孫ほど歳の離れた私との交わりを本当に喜んでくださいました。
そして、証しをたくさんしてくださいました。
 戦中、食べる物がなくなって祈っていたら、家の前に自転車の止まる音がして「お届けものですよ」と言って米屋さんがお米を届けてくれた話などは、非常に印象に残りました。
 卒業をひかえた頃、私は献身して牧師になりたいという思いが与えられました。ただ両親から反対され、特に父親に何を言われるか分からないと覚悟しました。
そのことを日曜日に教会の兄弟姉妹にお話したのです。そうしましたらHさんが「松本さん、心配ないよ。神さまがついていてくださるから。
もし、家からオン出されたら、家に布団があるから、来なさいよ。泊めてやるから」。
Hさんは、嫁姑で大変な中にあって、私が転がり込めるような家庭状況ではなかったのは百も承知していたのですが、後先考えずに、真剣に話してくれたのです。
私は、その時、血縁の家族を超えた、主にある兄弟姉妹、神の家族としての強い結びつきを経験しました。
 神の子である私たちは、神の家族の交わりの中で支えられるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

クリスチャンの時間管理

「時をよく用いなさい。」(エフェソ5:16)

 パウロは「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」と語って時間を管理することを勧めています。ギリシャ語では「時」と訳せる言葉が2つあり、時の流れを現す「クロノス」と「神さまの特別な時」を意味する「カイロス」です。
ここでは「カイロス」という言葉が使われています。
 また「用いる」とは「エクスアゴラゾー」というギリシャ語で、元々は「お店」を意味する「アゴラ」という言葉から出来上がった商業用語で「買い取る」とか「買い占める」という意味があります。

 ところで、クリスチャンにとって、「神さまの特別な時」とは神さまとの出会いの時、神さまと交わる時でしょう。ですから「時をよく用いなさい」と言う時に意味していることは「神さまとの特別な時、神さまと出会うチャンスを買い占めなさい」、ということです。
「自分の人生を、神さまと出会う特別な時としなさい」ということであり、いいことも悪いことも、神さまと出会うチャンスとして生かし、神さまをより深く知る、信仰を働かせるチャンスとしなさい、ということなのです。
 ある方は、人生は信仰を学ぶ学校である、と言っていました。聖書は、「任せられている富や時間、様々な恵みを用いて、天に宝を積むように」と、私たちに勧めます。「日々の生活で起こり来る様々な、ありとあらゆる出来事を、《神さまとの出会いの機会》として用いていくように」。
また、「そのようにして、死を通しても失われることのない、神さまとの関係のパイプを太くするような生き方をするように」と、私たちに勧めているわけです。
 〈神さま、あなたはこのことを通して私にどのような信仰のレッスンをお与えになっているのですか〉と訊ね、様々な出来事の背後にある神さまの御心を求めて、御言葉と祈りによって神さまに近づきましょう。
 今日も、自分に与えられた出会いや出来事を、神さまが備えられた信仰を学ぶ機会として受け止め、「時をよく用いて」いきましょう!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

愛する息子

「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)

 ある安息日にイエスさまはファリサイ派のある議員の家に入られました。そこに居合わせた人々の目は、じっとイエスさまに注がれていました。何故なら、その日は安息日で、イエスさまの正面に水腫を患っている人がいたからです。
つまり〈何か起こるぞ〉という野次馬的な期待感が居合わせた人々の心の中にあったようです。
 これに対してイエスさまは彼らの魂胆を見抜かれ、彼らに向かって「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないのか」と訊ねたのです。居合わせた人々は誰一人として答えることができずに黙っていました。
ではイエスさまはどうされたでしょうか。水腫を患っていた人を癒し、家に帰したのです。そして人々に向かって「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と御語りになりました。

 ところで、ここでイエスさまは、極めて当たり前のことをお語りになりました。でも当然のことを話さなければならない程、当時のユダヤ人たちは、人には厳しい要求を押し付け、助けることに制限を加えるという矛盾を犯していたわけです。
それに気づかせたかったのだと思うのです。

 さて、もう1つのことを注目しましょう。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われた時、イエスさまが、単に「子ども」と言わずに「自分の息子」と言われたことに注目したいと思うのです。
これは、神さまの眼からご覧になると、水腫を患った彼は「自分の息子」なのです。ですから神さまの「愛する子」です。
 そのように神さまは全ての人を「自分の愛する子」として見ておられるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年08月 | 更新情報をチェックする