ご案内
 ご覧いただきましてありがとうございます。月曜日から金曜日の朝に、当教会の担任牧師である松本牧師からのメーセージをお届けしています。
 このメッセージはメール配信も行っています。登録を希望される方は、お名前とメールアドレスをご記入の上、devotion#koza-church.jp (#を@に置き換えてください)まで、メールでお申し込みください。

2017年04月21日

先行する恵み

「『あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。・・』
・・『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・』」(出エジプト19:4−5、20:2−3)

 「旧約聖書の神さまと新約聖書の神さまはちがう。旧約の神は義の神で、新約の神は愛の神だから」という言葉を聞いたことがありますが、これは大きな間違いです。
旧約聖書の神も新約聖書の神も、同じ神さまです。義であると共に、恵み深い愛のお方です。
 確かに聖書を見ますと「〜してはならない」とか「〜しなさい」という戒めの言葉がたくさん出て来ます。そうした聖句は、時々、堅苦しさを与えることがあります。
でも、そうした言葉を前後の文脈の中で読む時に、必ず1つのことに出くわします。それは常に「神さまの恵みが先行している」ということです。
 実は、今日の御言葉は、モーセを通してイスラエルに十戒をお授けになる直前に主なる神さまによって語られたものです。十戒が付与される前に「出エジプト」という恵みの出来事があったことを、神さまはイスラエルの民に伝えているのです。
 すなわち、奴隷であった人々が、「出エジプト」という救いの恵みによって神の選びの民とされたのです。そのような恵みの選びを経験し、聖なる神の民と呼ばれるようになったからには、その神の民と呼ばれるにふさわしい生き方があるはずです。
それを表現したものが十戒であり、聖書に出てくる様々な勧めの言葉なのです。
 救いの恵みがあって、次に救われた者としての生き方が続きます。この順序を間違えないでくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年04月 | 更新情報をチェックする

2017年04月20日

一歩一歩を備えてくださる神さま

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9)

 私はよく計画を立てます。そしてその計画に基づいて、順序良く、1つひとつのことを進めていきます。
しかし、この箴言の御言葉によれば、最終的に一歩一歩を備えて下さるお方は神さまなのだ、ということを教えているのです。
 イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。彼らは自分たちを救ってもらうために神さまに叫び祈ったのです。
 神さまはそうしたイスラエルの民の祈りを聴いてくださり、解放者としてモーセを選び、彼を通して不思議な業をなし、最終的に「過ぎ越しの出来事」によってファラオの心をつくり変えていかれました。
そのようにして「出エジプト」が実現したのです。
 「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。
あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』
・・モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。」
(出エジプト14:13−14、21)
 最終的に神さまは紅海を真っ二つに分けて「出エジプト」という救出計画を実現されたのです。
 「出エジプト」は民の悲願でした。そのために人々は、色々と計画を立てたかもしれません。
でも、誰が紅海を2つに分けて、その道を通ってイスラエルの民を救い出す計画を立てることが出来たでしょうか?

 今、あなたはとても大切な計画を立てようとしているところかもしれません。そんな時に、今日の聖句を思い出してください。
最終的に私たちが信頼すべきものは念入りに立てた計画ではなく、生きて働いておられる神さまの方だからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年04月 | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

イエスさまの勝利宣言

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「この世にあっては苦難がある」とイエスさまはおっしゃいました。
この言葉は、私たち日本人が使うところの「浮世の悩み」というようなものではなく、「艱難」(かんなん)とか「迫害」を意味する言葉です。
 クリスチャンとは、この世にありつつも、この世のものではない。いわば、「天国人」であると聖書は教えています。
ですから、この世にありつつも、この世の者でないために、この世から憎まれたり、迫害されたりすることがあります。
 「私たちの国籍は天にある」と獄中の艱難の中にあるパウロは告白しましたが、そうしたパウロにとって、また初代教会の弟子たちにとって、「キリストは世に勝った!」という動かしがたい事実は、彼らの大きな慰めと支えになっていました。

 ある人がこんなことを言っていました。
「本当の現実というのは2つしかないのです。1つは、人間は罪人だ、という現実です。もう1つは、この罪人である私たちを神は最高に愛され、御自身を信じる者に赦しと助けを約束された」と。
 私たちは受難週を通して、「あなたは罪人だ」という1つ目の現実を知らされました。でも、そこがゴールではなく、だからこそ、へりくだってそのお方に憐みを乞い、そのお方から赦しと命を祈り求めるのですね。

 主は、すでに世に勝っておられる。勝利は、もう時間の問題です。でも、今、その勝利はまだ完全に私たちのものではありません。ですから、神さまの愛と助けの中に生きることが大切なのです。
 ぜひ、今日は、このことを覚え、神さまの勝利を信じ、神さまの赦しの愛、そして御言葉の約束を信じ、歩みつづけていきたいと願います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年04月 | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

イエスさまってどんな方?

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」
(ヨハネ6:35)

 ヨハネ福音書を読むと、「わたしは〜である」という表現が7回出て来ます。

?「わたしが命のパンである」(6:35、48)
?「わたしは世の光である」(8:12、9:5)
?「わたしは羊の門である」(10:7、9)
?「わたしは良い羊飼いである」(10:11、14)
?「わたしは復活であり、命である」(11:25)
?「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)
?「わたしはまことのぶどうの木」(15:1、5)

 ヨハネは終わり部分で福音書を書いた目的を語っていますが、それはイエスさまが救い主キリストであることを信じて永遠の命を受けるためなのだ、というのです(20:31)。
 そして、そのことのためにイエス・キリストというお方が、一体どのようなお方なのかを、イエスさま自身の言葉を一生懸命紹介しているのです。

 ところで、イエスさまが、ご自分で紹介されるようなお方であるとするならば、すなわち、「命のパン」、「世の光」、「羊の門」、「良い羊飼い」、「復活、命」、「道、真理、命」、そして「まことのぶどうの木」であるとするならば、
あなたは、そのようなお方として、イエスさまとの関係を大事にしておられるでしょうか?
 イエスさまは、あなたにとって「命のパン」となっていますか?イエスさまの「光」によって生活していますか?救いにあずかるためにイエスさまという「門」をくぐろうとしていますか?
それとも別の門をくぐった所に救いを見出そうとしていないでしょうか?将来の見通しが立たない時、「道」であるイエスさまに頼っていますか?

 あなたにとってイエスさまってどんな方でしょうか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年04月 | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

再献身への招き

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、
イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」(ヨハネ21:15)

 復活の主イエスさまと出会ったペトロは、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。勿論、主を愛していましたから、彼の性格からしても、そのように問われれば即座に「愛します」と言いたかったと思います。
でも、言えませんでした。それはつい数日前に、3度もイエスさまのことを「知らない」と否み、ずっと愛をもって導いてくださったイエスさまを裏切ったからです。そうした自分自身の罪と弱さを情けないほど知らされるという経験をしていたからです。
ですから、イエスさまに申し訳なくて、自分のことが情けなくて、口が裂けてもペトロの方から「愛しています」などとは言えませんでした。あなたにもそうした経験はありませんか?

 でも復活の主イエスさまは、そのようなペトロに対して、ただ自己嫌悪の内に落胆することのみを求めておられませんでした。むしろ、すべてをご存じの上で、「それでも、わたしを愛するか」と、イエスさまに従って生きる再献身に招いてくださったのです。
そして、それは十字架があったからこそ、可能なことでした。
 あなたも自分の罪や弱さに直面し、情けなくて立ち上がれないような経験をしたことはありませんか? でもイエスさまは、あなたのその落ち込みの原因もよくご存じの上で、「わたしに従って来なさい」と招いてくださるお方なのです。
 心を高く上げて、主の招きに従って行こうではありませんか!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年04月 | 更新情報をチェックする