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2017年02月24日

渇きを癒すイエスさま


「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

 人間は、神に創られたがゆえに、神を離れては本当の意味での満足と平安をいただくことはできないと聖書は教えます。創世記にはまさに、その事が出てきます。
 神さまとの関係の中に生かされていた時、人間は自分が自分であることに満足し、喜んでいました。自分が好きだったのです。人と比較して、優劣をつけて、鼻が高くなったり、落ち込んだりすることからも自由でした。

 ところが、神さまとの関係がズレてしまったとき、人間は自分との関係もズレてしまいました。神さまとの縦の座標軸を失った時に、彼は宙ぶらりんとなり、結局、横との関係で、自分の位置を確かめることしかできなくなりました。
そのようにして横同士の比べ合いや競争が始まりました。
 今まで神さまとの関係でたくさんの恵みをいただき、愛を十分に受けていましたから、満たされていました。
ところが、神さまとの関係が切れたことによって、自分が分からなくなり、自分が嫌になり、無意識の内に神さまの愛の「代わりとなるもの」を一生懸命求めて渇いたのです。言わば、愛の綱引き、愛の奪い合いが始まりました。
 こうした私たちの心を見られたイエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださっているのです。
 喉が渇き、そして、そして喉の渇きを癒したいと思った時に、綺麗な滝が流れていた。私たちはその滝にコップを差し出さなければ、その水を私のものとすることはできません。それが、信じるということです。
そして、その水を飲むことによって、私たちは少しずつ変えられていくのです。

 あなたは渇いていませんか? イエスさまの招きに応答し、そのお方のところで、心の渇きを癒していただこうではありませんか。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

嵐の中での信頼


「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12:6−7)

 ある日、イエスさまと弟子たちを乗せた舟が湖の上で沈みかかり、弟子たちは慌てふためき、主は平安のうちに眠っておられた、ということがありました。
 ところで、今日の聖句を見ると、神の許しがなければ、雀1匹すら死ぬことはないと教えます。しかも私たちはそうした雀よりもはるかにまさった存在ですから・・。
ところで、アウグスチヌスは次のように語っています。「私たちはこの世の海を航海しているのです。風が起こり、誘惑の暴風が起こる。何故でしょうか。イエスが眠っておられるからです。
それはどういうことでしょうか。それは、信仰が眠っているからです。キリストが目覚めておれば、波はない。故に、『主よ、起きてください。私たちは滅んでしまいます』というべきです。
そうしたならば、彼は永遠にあなたがたと共にいまし、あなたがたは平安であります。」
 父なる神に信頼をおいておられた主は眠り、眠った信仰の弟子たちは慌てふためく。眠るイエスさまと慌てふためく弟子たちの姿は対照的です。
信仰が目覚めているか、眠っているかは、生活に突如として突風が襲ってきたときに明らかになるのではないでしょうか。
「信仰」のことをギリシャ語で「ピスティス」と言いますが、「神さまの真実」にも、同じ「ピスティス」という言葉を聖書は使います。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と御声をかけてくださるお方は、真実な御方です。
1羽の雀を御心にとめ、あなたの髪の毛1本1本を知っておられる神さまの真実に信頼して、今日一日を過ごしていきましょうね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

御言葉の力を経験する


「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
(イザヤ55:11)

 ある日、イエスさまはペトロに対して、沖に舟を出すように頼まれました。湖の上から舟に乗って、陸地に集まった群衆に対して御言葉を語るためでした。
 舟に居たペトロは、イエスさまの御語りになる横で、その教えを聞いていました。もちろん、群衆たちも御言葉を聞いていました。
でも、イエスさまはペトロに対して、もう1つのことを期待していたのです。それは、御言葉を聞くだけではなくて、御言葉を経験して欲しかったのです。
そこでイエスさまは、漁師のペトロに分かり易い表現で、「沖へ漕ぎ出して、漁をしなさい」とお命じになったのです。ペトロは、「お言葉ですから、網を下ろして見ましょう」と言いました。
実は、前の晩、夜通し漁をしたのに収獲はゼロだったのです。素人のイエスさまが漁について語ってもらっちゃ困ると、内心思いましたが、何しろイエスさまの願いです。断るわけにはいきません。
でも、ペトロには漁師としてのプライドがありましたので、「漁をするわけではありませんが、あなたが言われるのでしたら、網を下ろすだけは致しましょう」と言って、網を下ろすことにしたのです。

 ところが、どうでしょう。網いっぱいに魚が溢れたのです。その結果、ペトロはイエスさまの御言葉の力を経験したのです。
 イエスさまはただ単に、御言葉の知識を増やすことを私たちに求めておられるのではありません。むしろ御言葉の力を体験し、御言葉の約束に生きることを願っておられるのです。
「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
これがペトロの経験した御言葉の力です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

必要を満たしてくださるお方


「彼らは、荒れ野で迷い、砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き、人の住む町に向かわせてくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」(詩編107:4―9)

 日常生活の中で、お腹を空かしたり、喉の渇きを経験したりします。つまり人間は、このようなニーズを抱えて生きている存在ですね。誤解を恐れずに言えば、神は人間を「欠けある者」として創造されたと聖書は教えているように思います。
 でも、神が人間をそのように造られ、それで終わりではありません。詩編は「主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった」と歌い、そうした「欠け」を主が満たしてくださることを発見し、驚きをもって主を賛美しています。

 ある牧師は、この真理について「日々の食物や、喉をうるおすコップの水がもたらしてくれる充足感は、創造者の思いと贖いによる憐れみの結晶です」と語っていました。ですから、私たちの幸いとは何でしょう?
 それは、様々な問題や欠けや足りなさを通して、この神との出会い、そのお方によって満たしていただくことを経験することと言えるのではないでしょうか。

 パウロは、この神さまに出会って次のように叫びました。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
(フィリピ4:19−20)

 今日、あなたは生活や仕事の上で「必要」を感じていますか?大切なことは、その「必要」を誰のもとに携えていくか、です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

神に赦された者として生きる


「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」(ルカ6:29)

 名説教者として知られている渡辺善太牧師が語った話です。
 あるヤクザが神さまを信じ、本気になってイエスさまを信じて生きていこうと決心しました。でもヤクザの世界にはそれなりの「けじめ」が要求されます。彼は、潔くけじめをつけるため、組の事務所に向かったそうです。
「指でも詰めるか」と思いましたが、相手にボカッと右の頬をなぐられたというのです。元ヤクザの人は、聖書を真剣に読み始めていましたので〈右の頬を打たれた。うむ、ここだ〉と思って、素早く左の頬っぺたを相手に向けたそうです。すると左の頬もやられました。
 そこで終わればよかったのですが、勢いよく左の頬を打たれたので、再び右頬が相手の方に向いてしまった。すると、相手は、もう一度、その右の頬をボカッと殴ったそうです。
ところが、やられた瞬間、元ヤクザと言っても、まだ半分以上、ヤクザの血が流れていました(?)ので、その血が騒ぎ「俺の新しい親分(イエスさまのことですが)はそこまでおっしゃらなかった!」と叫んで、一瞬のうちに相手を殴り飛ばしてしまったそうです。

 ところで、聖書はクリスチャンのことを「神さまに赦された者」と呼びます。神さまは、私たちの罪に応じて報いることなく、まさしく主イエス・キリストの十字架において、ご自身を現してくださった神です。
 神さまの赦しを感謝しつつも、隣人の罪を赦せない私たちさえ、主の十字架のゆえに赦す神です。さらにありがたいことに、私たちの罪を赦す神はまた、私たちを罪から遠ざけ、罪から解放されるお方でもあります。
この元ヤクザの人も、きっと少しずつ神の赦しの愛の中で変えられていったことだと思います。
 今週も、この神さまの愛を実感して歩んで行きましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2017年02月 | 更新情報をチェックする