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2016年08月25日

恵みの道を歩む夫婦―プリスキラとアキラ


「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアキラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。
この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。」(新改訳 ローマ16:3−5)

 コリントでのパウロの宣教を支えた夫婦がいました。紀元52年頃、皇帝クラウデオは全てのユダヤ人をローマから追放するという勅令を出しました。
この時にローマからコリントにやってきたのがアキラとプリスキラ夫婦でした。
 パウロはコリントで1年半にわたり御言葉を教え続け、彼らはそのパウロを支えたのです。想像ですが初代教会の最も偉大な聖書教師による18ヶ月の集中聖書講義です。
アキラとプリスキラは、どれほど恵まれたことでしょうか!

 ところで、この夫婦、いつも2人の名前が仲良く一緒に出て来るのですが、聖書に6回、彼らの名前が出てくる中で、その内の4回、妻プリスキラの名が先に出てくるのです。
男性中心の当時として異常なことでした。
 では、どうして順序が入れ替わったのでしょうか?ある人は、プリスキラのほうが賜物に恵まれ、それ故に目立った役回りが多かったからだと説明します。けれども、それだけでしょうか?
 この夫婦はどちらが上か下かではなく、お互いのあるがままを受け入れ、愛し合っていたのだと思います。神さまが自分をあるがままに愛してくださっているので、相手をそのままで愛そうと努めていた。
その結果、仮に妻が自分より能力があっても脅威を感じ、恥ずかしく思う誘惑から自由でした。逆に、そうした賜物を妻に与えた神さまをほめたたえて生きたのがアキラだったのだと思うのです。
 まさにパウロが教えた恵みの道を、夫婦共々歩むことができたのです。
 あなたのご家庭はいかがですか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2016年08月 | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

神に愛されている子どもとして


「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5:1)

 聖書の福音は、私たちが一生懸命頑張り、真面目にやり、私の側ですべきことをしっかりしていないと天国に行けない、と思われることを教えています。
 時々、親が子どもを動かすために、「一生懸命やらないと、おやつやらないよ」とか、「真面目にやらないと、後で大変な目に遭うよ」などと言って脅して動かそうとすることがありますね。
でも神さまは決してそうしたことをなさいません。
 一方的な恵みによって罪を赦し、神の子とした私たちが、キリストにつながり、その与えられた恵みにふさわしく生きていくようにと励ましてくださるのです。
 ですから、今日の聖句を見ますと「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者になりなさい」と説かれているのです。
 「あなたはもうすでに、神に愛されている子どもなのですよ」と、まず神さまとの関係が回復された私たちがどのような者とされているのかをパウロは思い起こさせるのです。
 その後で、「愛されている子どもらしく振舞いなさい」と具体的な生き方について教えています。

 ところが逆に、「神さまに倣う者になりなさい。そうすれば、神に愛される子になれますよ」は、聖書の教えではありません。
 まず、神さまとの生きた関係に導かれ、神さまとのつながりの中から、その恵みにふさわしい生活が出てくるのです。
 「神さまの恵みによって、もうすでに愛されているから、愛されている者として歩んでいきなさい。もうすでに聖くされていますから、聖なる者として具体的な歩みをしてそのことを証しするように祈っていきなさい。・・・」とパウロは勧めているのです。
 この順序が大切です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2016年08月 | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

御言葉にとどまる


「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。』」(ヨハネ8:31)

 イエスさまの御顔を肉眼で見、またその御声を実際に耳にしたペトロやヨハネやヤコブたちを羨ましく思ったことはありませんか?
 イエスさまの背丈はどのくらいだったんだろう、とか。その御顔はどうだったのだろう?また、どんな声の調子で神の国の福音を説教されたのだろう、と考え始めたら切りがありませんね。
そうなるとなおのこと、その場に居合わせた弟子たちは、何と恵まれた存在だったかと思います。

 でも、どうでしょう?イエスさまは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当のわたしの弟子である」とお語りになりました。
 イエスさまの御顔を肉眼で見たり、その教えを直に聞くことが弟子の条件ではありません。イエスさまの言葉にとどまる者こそが、イエスさまの本当の弟子なのだ、と今日の御言葉は教えています。
 ですから、今の時代でも、イエスさまの弟子として生きる道は、豊かに備えられていることを覚えましょう。
イエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当のわたしの弟子である」と言われました。

 ところで、あなたにとってイエスさまの言葉にとどまる、ということは何を意味しているでしょうか?
主の言葉を聞いて、そしてとどまる。時間をかけて思いめぐらすこと。心に残った御言葉を暗誦すること。その御言葉を生活の中で実践してみること。
こうした1つひとつのことが、御言葉にとどまることだと思います。
 今日、あなたはどのように御言葉にとどまり、イエスさまの本当の弟子としての歩みを進めて行かれますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年08月 | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

前もって準備してくださった善い業のために


「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
(エフェソ2:10)

 再献身を迫られたペトロの視界に「ライバル」ヨハネの姿が飛び込んできました。そんなペトロに、主は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたのです。
 この箇所は、私自身、よく思い起こすところです。私たちはよく他の人のことが気になるものです。愛すべき兄弟姉妹、協力すべき同労者たちを「ライバル」視し、いつのまにか比べ合うことをしていないでしょうか?
 そうしたことで時間を無駄にしていたら、神さまがあなたのためにと備えてくださっている善い業を、誰があなたにかわって生きてくれるのでしょうか?!

 以前、こんなことがありました。アメリカからM牧師が来られた時、その先生を囲んで会食会をしました。するとM牧師が私の印象を他の牧師たちに訊ねたのです。

 「松本牧師をどう思う?」

 びっくりしました。〈何で、そんなこと聞くんだろう・・?〉と急にその場が白けた雰囲気になったのを肌で感じ取りました。
たぶん、比較的規模のある高座教会を牧会しているので、その評価を聞きたかったのだと思うのです。
 少しして一人の牧師が口火を切りました。「気の毒だと思う」。「いつも忙しくて、本当に気の毒だと思う・・」と。
 その言葉を聞いた私は、複雑な気持ちになりました。〈気の毒がられているんだ・・・〉。やるせない思いになりました。そしてしばらく落ち込みました。
 でも、この出来事をきっかけに、もう一度、神さまが私のためにと備えてくださっている「善き業」を再確認させられたように思います。
 今日も神さまは、あなたのためにと善き業を備えてくださっています!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年08月 | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

祭壇を築く生活


「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』
アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」
(創世記13:14−18)

 アブラムが天幕を写して住み着いた土地は、おいのロトが選ばなかった方の土地でした。それはある意味で「残りもの」です。
 でも、真の意味であなたを支え生かすのは「土地」そのものではなく、その土地をも与えてくださる主なる神さまなのです。
 ともすると私たちは「土地」そのものが私を支え生かすものであると錯覚することはないでしょうか?アブラムの時代の人々にとっての「土地」は、今の私たちにとっては「会社」や「仕事」、「学校」や「貯蓄」であったり・・。
でも、よくよく考えてみれば、そうした会社や仕事や学校や蓄えも、神さまからの恵みの賜物に過ぎません。
 主なる神さまはアブラムに、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と、以前アブラムと結ばれた恵みの契約を思い起こさせたのです。
 その恵みに応えるように、アブラムは新しく移り住んだ土地に祭壇を築くところから始めました。それは、自分を生かすのは「土地」ではなく、「土地」を含めすべての恵みを備えてくださる主なる神さまなのだとの信仰を表明する行動でもありました。

 ところで今日あなたは、恵み深い神さまにどのように信仰の応答をしますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年08月 | 更新情報をチェックする