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2017年12月11日

ザカリアなる神

「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(ルカ1:13)

 ザカリアは神殿で仕える働きに選ばれました。これは一生に一度あるかないかの光栄な奉仕です。
神さまは老祭司ザカリアを選び、その奉仕の最中に「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と語られたのです。
 これに対してザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年とっています」と答えています。
 考えてみれば、これまでに何度も熱心に捧げた「子をお与え下さい」という祈りをすっかり忘れてしまっていました。
その祈りが、今実現しようとしているのに、当のザカリアは、あまりにも常識的、人間的な判断で御言葉の約束を理解しようとしています。

 ところで「ザカリア」とは「神は覚えておられる」という意味の名です。
祈ったことすら忘れているザカリアの名前は、「神は覚えておられる」というのです。皮肉です。
 神はあなたの祈りを全部覚えておられる。「祈ったのに答えられない」という話をよく聞きますが、そうした時、問題は神にあるのではなく、信仰の目が開かれていない私の側にあるのです。
御業を受け止める霊的センスがないために、その尊い出来事を見落とし、その代わりに、自分の経験と判断の物差しで御言葉を理解しようとするのです。

 神さまは何と言われたでしょうか。「わたしの言葉は、時が来れば必ず実現する言葉だ」と言われるのです。
 御言葉をくださるお方は「ザカリアなる神」です。「覚えておられる神」であるが故に、祈りは必ず聞かれる。最善の方法で最善の時に「ザカリアなる神」は答えてくださるからです。
 今まであなたは何を祈り求めて来ましたか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年12月 | 更新情報をチェックする

2017年12月08日

倚りかからず

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(マタイ2:1−3)

茨木のり子さんの詩に「倚りかからず」という詩があります。

 もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ

 この詩を読み、大きな衝撃を受けたことを今でも覚えています。もっと正確な言い方をするならば、挑戦を受けたように感じました。
同時に、その時、ルターの次のような言葉も思い出したことです。
「今、あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうにあなたの神なのである。」
 茨木さんの詩もルターの言葉も、問題となっているのは〈何に心をつなぎ、何に信頼を寄せてきたのか〉ということだと思うのです。
 聖書を読むと、神さま以外のものに倚りかかりしがみついて生きている人と、イエスさまに全てを委ねて生きている人と、2種類の生き方をしている人々が出てくるように思います。
とても荒い分類の仕方ですが・・。

 片方の代表がヘロデ、もう片方の代表が博士たちです。前者の心は「不安」であり、後者の心は「平安」でした。
ヘロデの不安は大勢の幼い命を犠牲にし、博士たちは宝物を捧げた後も心が満たされていたのです。あなたはどちらですか。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年12月 | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

私たちへの受胎告知

「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。』」
(ルカ1:30−31)

 聖書によると、私たちはクリスチャンになることによって聖霊を内に宿します。つまり新しい命をいただくのです。
ある意味でマリアのように「キリストを受胎する」恵みに通じる出来事です。
 さて、子どもの誕生前にはそのための準備が必要です。そして生まれた後には、新しい命の到来と共に、その命を受け入れた者の生活は大きな変化を強いられます。
それと同様に、イエスさまをお迎えすることは、私たちの生活自体が大きく変わることでもあるのです。

 そう言えば受洗の時、「あなたは罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主また主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」と訊ねられたことを思い出します。
 単に「救い主」とだけではなく「主」と尋ねられました。何故ならキリストはあなたを罪から救う方であると同時に、あなたの人生を導く主なる方だからです。

 ある人がこんなことを言っていました。
「クリスマスを迎えるということは、私たちが主イエス・キリストにあって変わらなければならないこと、変えられなければならないことを新たに想い起こし、
私たちの生き方やこの世界に対する私たちの関係を見つめ直すことにつながっている」と。まさに、そうだと思いました。
 今年のアドベントの季節、キリストがあなたの人生に介入されたことによっていただいた恵みを覚えましょう。
同時に、キリストがあなたの主になられたがゆえに与えられているチャレンジをも思い起こしてみましょう。
 あなたにとってイエスさまが人生の主であるとは、どういう意味のあることでしょうか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年12月 | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

知れ、主こそ神であると

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩編100:3)

 師走に入り、急に「忙しさ」感が増してきたのは私だけでしょうか?
 クリスマス、年末に向けての様々な準備、何か周りを見ているだけで気忙しくなってきます。
 そのような中で、聖書は繰り返し、主の前に静まることを勧めます。
それによって、どなたが神であられ、そのお方にとって私はいったいどのような者であるのかを知ることが出来るからです。
 今日、静かな時間を取ってみませんか。そして、次の祈りを心の中でゆっくりと、そして静かに祈ってみてください。
 そして、この祈りの言葉に続き、あなたの言葉で主なる神さまに呼びかけてみてください。

 いつも共にいてくださる主よ
 日常生活の中では、忙しさや思いわずらいのために
 あなたのことをすぐに忘れてしまいます。
 だからこそ、祈りの中であなたと共にいることを
 味わわせてください。
 あなたと共にいるならば
 恐れや困難の中でも
 忙しさや雑事の中でも
 自分の道を歩んで行くことができるのですから。

 今日も主があなたと共におられます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年12月 | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

イエス・キリストの系図

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(マタイ1:1)

 先週、ノア会でクリスマス礼拝がありました。今年もいよいよクリスマスがやってきます!
 ある時イエスさまの先駆けとして生きた洗礼者ヨハネは、「生まれながらのアブラハムの子孫である」と鼻高々に誇っているユダヤ人に対して、
「神さまは石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがお出来になる」 と断言しました。
 実は、マタイ福音書1章にしるされている系図は、そのことを示しているのです。

 そう言えばマタイは、元取税人。主に拾われた「石ころ」のような人でした。
彼は、この系図に一人ひとりの名前を丁寧に書きながら、彼らの罪の深さを知らされ、それを覆う神さまの深い愛に感動していたのではないでしょうか。
彼は、自分の人生をこの系図に重ねながら、彼の生活のただ中に降りて来て、自分を救って下さったイエスさまを覚え、賛美を捧げていたのではないか、と思います。
まさに彼にふさわしい『マタイの福音書』の書き出しでした。
 パウロもこの恵みについて、次のように語っています。
「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(ガラテヤ4:4−6 口語訳)
 私たちがどのような者であったとしても、この私を聖霊によって、神の子とするために、イエスさまは飼い葉桶に誕生し、罪人と共に歩まれ、最後には、十字架に掛かって罪を贖って下さったのです。
このイエスさまを知り、心から感謝するアドベントを過ごしていきたいと思います。

 この恵みをかみしめて、新しい一日へと派遣されますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年12月 | 更新情報をチェックする