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2016年09月29日

こんなつまらない男なのに


「心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。
あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。
主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。・・・わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」
(詩編27:8−14)

 高橋俊郎という方がおられました。青山学院の高等部の教師を長い間つとめられた立派なクリスチャンでした。
肺がんで召されるのですが、葬儀のときに読んで欲しいといって、《こんなつまらない男なのに》という題の詩をのこされました。

《こんなつまらない男なのに》
 30年間親身になって手伝ってくれた女性がいた
こんなつまらない男なのに
 親父と呼んで、大切にしてくれた息子たちがいた
こんなつまらない男なのに
 いろいろ心配してくれた姉妹がいた
こんなつまらない男なのに
 先生と呼んで、ついてきてくれた生徒たちがいた
こんなつまらない男なのに
 誠実に交わってくれた友がいた
こんなつまらない男なのに・・・いやちょっと待て
 「つまらない」とは、人間のきめたことば
このような男さえ、神さまは用いて下さった

 つまり、人がどんなに「つまらない」と言っても、また自分自身が自分を見たとき「つまらない」と思えたとしても、神さまの目からみたときに、そうではない。
いや、大切な存在で、神さまから尊い命を授けられ、生きることが励まされているのです。
 神さまはあなたをどのようにご覧になっているでしょうか。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年09月 | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

へりくだって神と共に歩む


「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、
 これである。」(ミカ6:6−8)

 朝夕が涼しくなってきました。教会の庭では少し前まではせみの声が聞こえていました。
 三好達治の詩に「せみ」という作品があります。夏の詩です。

 せみは鳴く/神さまがネジを/お巻きになっただけ
 せみは忙しいのだ/夏が行ってしまわないうちに/
 ゼンマイが/すっかりほどけるように/せみが鳴いている/
 私はそれをききながら/つぎつぎに昔のことを思い出す/
 それも、おおかたは悲しいこと/ああ、これではいけない

 思い出すと悲しいこと、思い出して自分がいやになること、そう言うことは、誰にでもあることだと思います。
三好達治はせみの鳴くのを聞きながら、そんな自分を振りかえって「ああ、これではいけない」と自分に言い聞かせているように、この詩を作ったそうです。
 今年も半分以上が過ぎました。振りかえってみて「どうだったかな…」と思います。イエスさまの御前に反省すべきことが多かったような気がします。
新しい思いをもって一年を始めたのに、いつの間にかいつもの私に戻っている…。そんなことを感じるのです。

 今日の聖句は、預言者ミカが記したものですが、彼は幻を見ながら、神さまの喜ぶことって何だろうと考えます。
 私たちも、自分が喜ぶことは神も喜んでくださるに違いないと誤解することがあると思います。
ところがミカは、神さまは喜ばれ求められることは「へりくだって神と共に歩むことである」と気づくのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年09月 | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

自分自身を愛する


「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

 学生の時、忘れることの出来ない1冊の本との出会いを経験しました。
 ワルター・トロビッシュの『自分自身を愛する』という本です。
大変うつくしい、ブロンドの髪の女性が、トロビッシュという牧師のもとに来て、自分が愛せないのです、と告白するところから、その本が始まります。
 その本の中で、「本当に大切な人を大切にできない」のは、実は自分を大切にできないからである、というのがこの本のメッセージでした。

 自分を大切にできていない人、つまり、自分をそのままで受け入れることできない私たちは一生懸命、何かになったときの自分を想定して、愛そうと努力します。
現状に不満をもっているからです。一向に心が満たされません。
 ですから、その満たされない心を他の人によって満たしてもらわなければならない。他の人を愛する代わりに、他の人に愛して欲しいと求めるのです。
愛は限りなく奪うのです。それを聖書では「エロス」の愛と呼びます。

 しかし、イエスさまは、「あなたがいてくれて本当によかった」と言ってくださるのです。これがイエスさまです。これを「アガペ」の愛と言います。
 ですから、このイエスさまに出会うことが、全てのことの始まりであります。
このイエスさまに労をとっていただき、イエスさまに大事にしていただき、イエスさまに愛していただく。
私たちが愛するのは、神が先ず私たちを愛してくださったからだ、ということが、個々に起こるわけです。
 そのようにして、すべての活動、すべての生活に先立って、まずイエスさまに愛され、イエスさまに大切にされていることを実感すること。
これが、無くてはならないもの。あなたにとって一番必要なものなのではないでしょうか!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年09月 | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

パウロの優しさ


「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。」(フィリピ2:29)

 パウロはここで、大きな失敗をしたエパフロディトを優しい心をもって受け止めています。
 なぜパウロは、失敗し多くの人に迷惑をかけたエパフロディトに対してとことん優しい心で接することができたのでしょうか?
実はパウロ自身がエパフロディト同様、見事に失敗し、見事に的をはずした経験の持ち主だったからです。

 パウロはキリストを迫害しました。とことんやりました。しかし神さまは一方的に憐れんでくださり、愛してくださった。このパウロをとらえてくださったのです。
〈このようにがむしゃらで的外れの私自身が、結局キリストを十字架につけた〉ということをパウロは心の深いところで受け止めたのです。
 しかも、〈このような者にもかかわらず御子の命と引き換えにしても惜しくないと神はお考えになり、このような私をも、熱烈な愛をもって愛してくださっている〉ことをパウロは知ったのです。
パウロはキリストの愛に感動したのです。〈私が立ち直るためにと、キリストが全部の泥をかぶってくださった。それによって私は生かされた〉と知ったのです。

 イエスさまは言われました。「私はあなたがたを友と呼ぶ」。「あなたは高価で、尊い。私はあなたを愛している」と。
聖書を読む時、どの聖句もみな、もったいないほどのお言葉です。その極みがクリスマスであり、十字架です。
そこに現された眼差しをもってあなたを見つづけ、接しつづけておられる主の優しい眼差しの中にとどまりつづけることを通して、敗者復活が現実に起こり、エパフロディト同様、あなたも変えられていくのです。
 今日の主の眼差しを背中に感じ、信仰の道を健やかに歩んでいきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年09月 | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

証しする責任


「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19−20)

 私をキリストに導いてくださったのはアロフス宣教師でした。
 本当に素敵な方で、私たちの憧れの的でした。最初は英会話が目的でクラスに出ていたのですが、ある時、「私は死ぬことが怖くありません」とお話されたのをきっかけに、先生の信じているキリスト教に興味を持ち始めました。
 「なぜ、あんな強がり言っているのだ」と、最初は反発する思いもありましたが、「この先生を動かしているのはいったい何なのだろう?」と思い始めたのです。

 ある時、先生は大好きなピーナッツバターを買ったのです。ところが封を切ると、それは似て非なる物、お味噌だったそうです。
 先生からそうした日本での不自由な生活の話などを聞けば聞くほど、「なぜ、そこまでして・・?!」と一層強く思いました。そして、「何かあるに違いない」と思い、本格的に聖書の話に熱心に耳を傾け、求道を始めるきっかけともなりました。
 宣教師の先生方は、なぜ、そこまでして、生まれ故郷を離れて出かけていくのでしょうか?!
それは、「イエスさまを伝えるため」です。そして、よくよく考えてみるならば、誰よりもイエスさまご自身こそが、天にある父なる神さまの御側という「故郷」を離れ、人の姿になって生まれてきてくださった。
そして十字架にかかり、救いの道を開いてくださった。このようにして、私たちのもとに福音が届いたわけです。
 そのイエスさまが残した命令が今日の御言葉です。今日もこの御言葉を覚え、主の証し人として遣わされていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:58| 2016年09月 | 更新情報をチェックする