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2017年07月20日

言われたとおりにすると

「その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。」(ルカ6:10)

 イエスさまが会堂に入っておられた時、右手の萎えた人がいました。〈いったい、どんな人だったのだろう〉。〈なぜ手が萎えていたのだろう〉と私たちの思いは広がっていきます。
福音書を書いたルカはさりげなくですが、その萎えた手が「右手」であったと伝えています。「右の手」。それは「利き手」でしょう。右手とは糧を得るために使う手です。
物をつかみ、物を作り、そして、自分の生活を支えていく手です。その「働き者」のはずの「右手」が萎えて動かなくなってしまっていた人が会堂に居たのです。
イエスさまは、この彼の手を癒されました。その時の様子を伝える言葉が今日の聖句です。
 最初、彼の手は完全に萎えていたので、伸ばすことは出来なかったはずです。でもイエスさまの言われたように、伸びない手を伸ばすと治った。
つまり原因と結果が逆転しています。実は、ここにイエスさまが教える「信仰」というものがあるのです。
 ある方は環境が整ってから受洗しますと言います。全部が整ってからクリスチャンになろうと考えがちですが、いつになったら整うのでしょうか? 何をもって整ったと言えるのでしょうか?
 イエスさまが求めておられることは全くちがいます。私たちの可能性や力を信頼して「伸ばせ!」と言うのではなく、イエスさまの言葉を信じて「伸ばしなさい」と言われる。
その結果、癒されるのです。治ったから、信じたのではなく、まず信じることが先です。信頼が先です。結果は後からついてきます。
 たぶん彼にとって手を伸ばすことは恐ろしいことだったと思います。でもイエスさまは毅然とした態度で「手を伸ばしなさい」とお命じになるのです。

 今日のあなたにとって、主が言われたようにすることとは、何をすることでしょうか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年07月 | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

励ましを与える主の御声

「ボアズは言った。『わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。・・』」
(ルツ3:10)

 ある夜、ボアズは自分の足もとに横になっているルツを発見し大変驚きました。
不意をつくようなルツの行動に「お前は誰だ」と訊くと、彼女は「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と答えたのです。
それを受けてボアズは、神さまを畏れる信仰者として、適切な対応をしていきます。
 ボアズは、本当の幸せをよく知っていました。人の幸せが、ルツとナオミの経済力や社会的な安定によるものではなく、むしろ神さまとの正しい関係にあること。
ですからルツと神さまとの関係が祝福されますようにと祈ったのです。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」という御言葉が響いてくることです。

 さて、ルツはユダヤの慣習に習って行動したとはいえ、大変不安であったにちがいありません。ボアズはそうしたルツの気持ちを受け止め「わたしの娘よ、心配しなくていい」とキッパリと不安を断ち切ってあげるのです。
そうした上でルツに自信を持たせようと配慮し、他の人々の評判をルツに伝えています。心のこもった評価は、その人が自己吟味する上での助けとなり、励ましともなるものです。
彼はためらわずに、「この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている」とルツに伝えていきました。
 モアブ出身ということで肩身の狭い思いをしていたルツにとってボアズの励ましはどれだけ彼女を自由にしたことでしょう。

 今日、イエスさまは、あなたにどんな御声をかけてくださっていますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年07月 | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

心の鍵を開ける

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
(ヨハネ黙示録3:20)

 以前、駐車場のところに「エルサレム館」という名の礼拝堂が立っていました。その隣りに「エマオ館」というプレハブの建物もありました。
 当時、私は、教会の全部の鍵を預かっていました。一つ一つの建物に鍵があり、一つ一つの鍵は全く違う形をしていますし、また同じ形をした鍵でも、正しい鍵ではないと戸は開きませんでした。
今でも覚えていますが、エルサレム館の鍵は、とても面白い形をしていて、ちょうど宝箱の鍵をもっと大きくしたような鍵でしたね。しんちゅうで出来ていて、磨くと金色になる鍵でした。

 さて、あなたは幾つ鍵をお持ちですか? 家の鍵、クルマの鍵、引き出しの鍵など。そんな中、人の心を開くことの出来る鍵があったら便利だと思ったことはありませんか?
 実は、イエスさまもそんなことを考えておられたことが分かります。イエスさまも、あなたの心を開く鍵を持っておられないのです。
ですから、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」と言われたのです。
 イエスさまも鍵を持っていませんから、出来ることは、外側から心の戸をたたき続けることなのです。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。

 あなたは、イエスさまに心の戸を開いて、心の中にお迎えしているでしょうか。
 今日、イエスさまはあなたの心の中に入りたいと願っておられます。でも、その戸を開く鍵を持っておられません。強引に、戸を破って入ることもなさいません。
ですから、あなたが内側から戸を開かなければ入れないのです。どうされますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年07月 | 更新情報をチェックする

2017年07月17日

イエスのところに行ってごらん!

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品をご存知ですか?
 モモは痩せっぽちで、ぼろぼろの服を着た女の子です。魔法が使えるわけではないのですが、不思議な子でした。
モモがいると、相手を殺してやりたいと思うほどの憎しみ合う二人も仲良くなり、モモが一緒だと子どもたちの遊びは素晴らしく楽しいものになります。
モモに話を聞いてもらうと、とても悲しくて人生を諦めかけた人でも、なぜか自分の中に力がわいていきます。
 ですから、モモを知った人の合言葉は「モモのところに行ってごらん!」でした。

 ところが、だんだんと街の様子が変わってきます。人々は、より幸せな人生、豊かな暮らしのため、忙しくなってきました。未来の成功のためには、時間を、一秒でも無駄にできません。
するとお金はたまり、生活は便利で快適になっていくのですが、反面人々はいつも落ち着かず、イライラし不機嫌になり、怒りっぽくなりました。
 物語では、それは灰色の防止に灰色の服を着た「時間泥棒」の男たちが人々の気づかぬ間に大切な時間を盗んでいたから、という話になっています。
モモはこの時間泥棒と戦い、彼らが人々から奪った時間を取り戻すというお話です。

 この作品は「一番確かで大切なものが分からなくなる時、人間はとても不幸になる」ということを訴えていると思いました。
 例えば、日常生活でも目的と手段が入れ替わることがよくあります。人のために律法があったのですが、律法のために、つまり規則のために人があるように勘違いしてしまうのです。
このような中で、モモの街の人々でしたら「モモのところに行ってごらん!」と言ったことでしょう。

 では、あなただったら何と言いますか? そうです。「イエスさまのところに行ってごらん!」ですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年07月 | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

神さまの懇願

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
(新改訳 2コリント5:20)

 イエスさまは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と教えられました。ですから伝道とは趣味の問題ではなく、私たちの使命であり責任です。
 パウロもコリントの教会へあてた手紙の中で、「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と語り、神さまの差し出した和解を頼むから受け入れて欲しいと懇願しておられると語ります。

 なぜそこまでして、神さまは人々に迫るのでしょうか。実はその理由について有名なヨハネ3章16節は次のように教えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神が懇願する理由、それは、そのまま進んでいく先に永遠の滅びが待ち受けているからです。神さまはそうした私たちを御覧になって「滅びないで欲しい。永遠の命を手にして欲しい」と願われたからです。
そしてその根本的な動機は、「神は、世を愛された」とあるように、神さまがあなたを愛された、ということなのです。
 ですから、隣人に対してあなたができる本当の親切とは、あなたがその人にイエスさまのことを伝えることなのです。

 今日、あなたは誰にイエスさまのことを紹介するようにと神さまは願っておられると思いますか? そのことを祈ってみてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘
posted by 高座教会 at 06:59| 2017年07月 | 更新情報をチェックする